守銭奴

 池袋の東京芸術劇場モリエールの「守銭奴」の舞台をやっていたので、行ってきた。アルパゴン役を演じるのは佐々木蔵之介。舞台はパリ、時代も違うので、実際に演じられたら、どうなるのかな、と思って見たが、意外にも面白く見る事ができた。ほぼ原作通りに進行した。最終日の日曜日で、お客さんも満員とはいかないが、2/3くらいは席が埋まっていたかと思う。たまに演劇で食えない役者さんの話を聞く事があるが、演劇で食っていくのは大変そうである。食えない役者の方が多いのだろう。ゲーテは「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の中で演劇に生きる主人公を描いた。やってみると、演じるということはとても楽しいものなのかもしれない。

 守銭奴原作の書評に移る。とてつもないケチのアルパゴンには年頃の子供が二人いて、それぞれに結婚しようと思っている恋人がいる。だが、結婚しようにも、アルパゴンは金を全く出してくれない。おまけに、アルパゴンは子供二人の結婚相手を無理に決めようとする。さらに、アルパゴンは息子クレアントの恋人マリアーヌと結婚しようとする。この劇は、人物相関図を描いた方がわかりやすいかもしれない。アルパゴンの娘エリーズは、執事のヴァレールと恋仲だが、アルパゴンはエリーズとナポリの貴族アンセルム(=ドン・トーマ・ダルブルチ)を結婚させようとする。さらに、そのアンセルムはヴァレールとマリアーヌの父親であることがのちに分かる。最初に原作を読んだ時にはこの関係がごちゃごちゃしていて分からなかったが、実際に劇場で3次元的に見るとよく理解できた。

 守銭奴でお金を貯め込んでいるけちな男というのは今も昔も、どこにでもいるだろう。そういった守銭奴の万古不易な性格をとてもよく表しているのが、この作品である。普通は、お金を貯めるというのは何かに使うためなのだが、こういう男は貯めることが目的となってしまっている。手段が目的となってしまっているのだ。劇の中盤で、執事のヴァレールが放つ「人は食べんがために生きるものにあらず。生きんがために食べるものなり。」という言葉は名言である。その後のセリフで、生きることと食べることが逆転して、笑いを誘うのだが、劇で見るとどっちがどっちだか、気をつけないと分からなかった。本当に気をつけて生きていないと、時として本来の目的を見失うことはよくあることだ。忙しくても少し立ち止まって、何のために働いているのか、何のためにお金を貯めているのか、よく考える機会を持つべきである。

 作者のモリエールはフランスの劇作家であり、役者でもある。守銭奴が初演された時には、アルパゴン役を自ら演じた。フランスのシェイクスピアと言ってもいいだろう。モリエールは私のお気に入りの作者の一人であり、「人間嫌い」の書評の際にもモリエールの評伝を書いたから今回はそちらは省略する。ゲーテは、毎年1度モリエールを再読すると言っている。それくらい重要で学ぶことの多い作家である。冒頭で、演劇で食べていくことは難しいことを書いたが、モリエールの時代も芝居の興行成績を気にしながら出来るだけ客に受ける作品を書いたことだろう。「守銭奴」は初演の際には評判が良くなく、客も不入りだったようだ。作者の理想と、現実の観客との間にはギャップがあった。後世までも残る作品が書きたいとモリエールは思って書いたかもしれない。しかし、作品はモリエールが生きているうちには評価されることはなかったのである。時代を超え、国境を越えるとは、どういうことかを、感じてみるいい機会となる作品である。