芥川龍之介 河童 或る阿呆の一生

 前々回のモーパッサンで、芥川のことを書いたので、今回は芥川の作品について取り上げる。新潮文庫の「河童・或阿呆の一生」である。

 本作には芥川の晩年に書いた6つの短編が収められている。芥川の死因は自殺である。三十五歳という若さであった。

 「大導寺信輔の半生」は自伝的な要素の強い作品。主に幼少期~学生時代のことについて書いてある。未完に終わっているが、芥川はこの後も続けて書くつもりだったらしい。芥川の読書体験は小学校時代に「水滸伝」を読んだことから始まる。その後、高等学校までにドストエフスキーシェイクスピアゲーテモリエールスタンダールなどに熱中した。彼は人生を知るために、実際の経験ではなく、本を通して学んだ。本が好きだった芥川は、貧しかったため、自由に本を買うことができなかった。本を古本屋で売ることもあったが、ニーチェの「ツァラトゥストラ」を神保町の古本屋で売った後、売値の2倍で買い戻した話には笑ってしまった。

 「玄鶴山房」はある家族の物語である。肺結核に侵された老人、玄鶴は死期が近い。看病をするため、家族のもとに玄鶴の妾である、お芳が来る。

お芳が来たことで、家族の雰囲気は乱される。その後、玄鶴の死と、死後の残された家族について描かれている。同じく死の近かった芥川は自分の死後、残された家族について考えていただろう。全体的に家族の暗い側面が強調されている。

 「蜃気楼」は10ページ足らずの短編。主人公は友人と一緒に蜃気楼を見るために鵠沼の海岸に行く。海岸では蜃気楼はうまく見えなかったが、珍しい漂着物を拾う。海岸への行き帰りで、新時代の服装をした男女や、拾った物、昨晩見た夢のことについてなどの会話をする。これといった筋もなく、劇的な場面もない。面白さはないが、芸術的な美しさを感じる作品である。

 表題作の「河童」が収載作品中最も長い作となっている。ある精神病患者が河童の国に行った時の話を、作者が聞き取って書いたことになっている。河童の国などというものはあるはずがないのだから、河童の国に行ったと称する者は狂人ということになる。

 河童の国の事情は、あらゆる点で、日本とは違う。恋愛や、出産、死刑に至るまで、河童の世界は、現実の裏返しとなっていて、それが日本の世相に対する風刺となっている。筋がうまいし、皮肉あり、面白さもある作品である。本書のカバーの芥川の写真も、どことなく河童に似ている。

或る阿呆の一生」は芥川の自叙伝的な作品。死後の発表となった。

 この作品でもモーパッサンドストエフスキーボードレール等の名前が出てくる。19世紀の偉大な作品に親しんだ芥川の学生時代の読書の様子が窺える。読書体験以外にも、ゴッホの画集を見た経験も語られている。芥川が名前を挙げている作者のうちで、現在では忘れ去られた作者は稀である。そういうところが芥川の凄味であると感じる。51の短章に芥川の短い生涯がまとまっている。

 「歯車」は芥川が自殺する前の生活がどのようなものだったかわかる作品である。主人公の「僕」は睡眠薬の助けを借りないと眠れない。ホテルの部屋で原稿を書いたり、歯車の幻覚を見たりしている。「歯車」を執筆中には自分が死に近いという事を予感していたものだろうか、見たら死ぬと言われているドッペルゲンガーが出てくる。この短編にも特に筋はなく全体的に暗い雰囲気で、主人公の視点からは明るい展望は見出せない。この後に待っているのは暗い未来だけである事を感じさせる。一般的に、芸術家は不幸であると言われている。芥川も、自分の生み出した作品がもたらす幸福がなければ、生を続けていくことは不可能であっただろう。

 短編の名手といえばモーパッサンであるが、モーパッサンは非常に絵画的な、北仏の風景をそのまま文章に写し取ったような文章を書く。芥川の文章は、どちらかというと音楽に近い。夏目漱石はというと、絵画的である。村上春樹は作家の文章について、絵画的か、音楽的かに分かれると言っている。

  特に筋書きのない短編を芥川は好んだようだ。最近の作者でいうとレイモンド・カーヴァーも特に筋がなく芥川に雰囲気の似ている作品がある。

 芥川は非常にシニカルに物事を見る人だった。それは生きづらさに通ずると思う。そのシニカルさは、他人の目を執拗に気にするところから来ていると思う。そこが、彼が自殺することにつながったのではないかと、僕は思う。