カサ・バトリョ

 

カサ・バトリョ前景


 バルセロナでガウディの建築を見てきました。その中で印象に残ったのが、Casa Batllo(カサ バトリョ) でした。こちらの建築は、バルセロナのメインストリートであるグラシア通りにあります。隣にはこれもまた有名な、建築家ホセ・プッチ・カダファルクによる、Casa Amatller(カサ・アマトリェール)があります。カサ・バトリョはガウディによる建築です。とても人気のある建築なので、予約しないと中に入れないでしょう。予約は15分刻みになっており、建物の前には列ができていました。

 ガウディは自然からインスピレーションを得て建築したといわれており、カサバトリョに関しては、海がインスピレーションの源となっています。建物の外観を見るとバルコニーは魚の骨のようです。建物の側面は平面ではなく、波打っています。建物内部の壁も同様に波打つデザインです。驚くべきことに、カサ・バトリョの内部では、直線や平面が全く見られません。普通の住宅の常識を覆しています。ガウディは、建物の設計だけでなく、家具のデザインも行いました。このような波打った住宅には、普通の家具は合わないでしょう。自分の建築した建物に合う家具まで自分で作成していました。カサバトリョに関しては、建築設計ではなく、もともとある建物のリノベーションでしたが。

 ガウディは自然から着想を得るだけではなく、意外に思うかもしれませんが、カテナリーなどの数学を使ったデザインも行なっていました。家具に関しても、人間工学に基づいた設計になっています。そういった、アーティスティックなデザインだけではなくサイエンスも取り入れているところに、ガウディ作品の隠された魅力があるのかもしれません。

 カサバトリョやカサ・ミラはオーディオガイドが充実しており、日本語のガイドもありました。入り口でオーディオガイドを受け取り、中に入ります。ポイントごとに、自動でオーディオガイドが再生されるようになっています。エントランスは海底にいるような作りになっており、ジュール・ベルヌの世界観を表現しています。1階から2階に続く階段の手すりは大きな恐竜の背骨のようです。階段を上がって2階に行くと、バトリョ氏の書斎と暖炉のある部屋があります。その部屋を抜けてさらに進むと、サロンとも言うべき大きな部屋があります。この部屋は入り口の扉といい、グラシア通りに面した大きな窓といい、カサバトリョで最も象徴的で個性的な部屋と言って良いでしょう。この部屋にいる人々は、グラシア通りを通る人々を見、また、通りの人々から見られることを楽しんだようです。2階には、建物に囲まれた裏庭とも言うべき場所があります。グエル公園と同じく破砕タイルで作られた壁面があります。ベンチも置いてありました。私はベンチでしばらく休憩しました。

 カサバトリョには中央にパティオがあります。パティオはまた、吹き抜け構造になっていて、各部屋に日光と空気が行き渡る仕組みになっています。吹き抜け側面の青い色は上階に行くほど濃い青となります。これによって、上階から下階まで光が均一に行き渡るそうです。

 上階に移動します。追加料金で見れる部屋もあり、一応見てみましたが、見なくても損はしないと思います。次は屋根裏部屋です。屋根裏部屋は倉庫や洗濯室として使われていました。屋根裏部屋の通路には60個近い白の連続したカテナリー 曲線が使われており、見た目にも美しいです。そこから屋上へ移動します。

 屋上にはバーもあり、また、夜にはコンサートが開かれています。建物正面から見えるファサードの「龍の背中」と呼ばれる部分の裏側や、多彩色の曲がった形をした煙突があります。機能性と芸術性の両方を追求するガウディらしさが詰まっていると言えるでしょう。

 屋上まで上ったら、あとは階段を降りていきます。階段を降りながらアルミニウムのチェーンによって作られた隈研吾氏の作品を見ることができます。この作品もカサバトリョ同様に波打つデザインとなっており、色も上から下に行くにつれてだんだん黒色が濃くなっていくように作られています。サグラダファミリアの外尾悦郎氏以外にもバルセロナで活躍している日本人がいることに驚きです。そのうちにサッカーのFCバルセロナに移籍して活躍する日本人も出てくることでしょう。階段を地下まで降りると、Gaudi Cubeと呼ばれるCube(立方体)の部屋で6つの壁面全てがCGの画像で埋め尽くされる体験をして、カサバトリョでの全てのアトラクションは終了となります。

 カサバトリョは家族連れで見に来ている人が多かったです。どちらかと言うと、子供向けのアトラクションなのかもしれません。美人な女の子も多く来ていました。美術館に行くと、美人が多いのと似ています。美術作品を鑑賞しつつ、美人を鑑賞することもできてお得です。美術や芸術はそれ自体、特に実生活で役に立つものではありません。しかし、仕事をするにしても汚くやるのと、美しいやり方でするのとがあるでしょう。美への意識が少しあるだけでも、実生活や仕事に違いが生まれてくることと思います。

 

モンジュイックの丘

パブロ・ピカソ


 私が子供の頃にバルセロナ・オリンピックがあり、マラソンのゴールがモンジュイックの丘にある競技場でした。有森裕子選手が銀メダルを獲得していました。それで、モンジュイックという言葉が強烈に印象に残っていました。バルセロナに行く機会があり、その時にモンジュイック地区にも行ったので、その時のことについて書こうと思います。

 モンジュイック地区へは地下鉄が便利です。バルセロナの中心であるカタルーニャ広場から地下鉄の1番線でスペイン広場駅へ行きます。駅を出るとスペイン広場があり、大きなラウンドアバウトとなっています。中央には彫刻があります。この彫刻といい、ベネチアの塔といい、モンジュイック地区の建物はどれも大きいです。バルセロナ中心地からは少し距離があるので、大きな建物も建てやすいのかもしれません。サグラダ・ファミリアも、街の中心部からは離れた新市街にあります。

 坂を上ると、マジカ噴水があります。私が行った時期は水不足で、噴水ショーはやっていませんでした。コロナ禍の中ですので、観客で密になるのを避けるための措置なのかもしれません。噴水の奥にカタルーニャ美術館があります。この建物は外から見ると美術館には見えません。日本でいうと、国会議事堂や、神宮外苑聖徳記念絵画館に似ています。美術館はカタルーニャにゆかりのある芸術家の作品を中心に集めています。キリスト教の芸術作品が多い印象です。キリスト教以前の、ギリシャに由来する作品もありますが、少数です。日本でもおなじみの、ピカソやミロ関連の作品が見どころです。作品数もそれなりに多いです。疲れた時は、美術館内のカフェで休むと良いでしょう。私は歩き疲れて、休憩がてら立ち寄り、軽食とエストレージャのビールを頼みました。バルセロナ地ビールであるエストレージャは、街のあらゆるところで飲むことができます。私はバルセロナに滞在中、毎日ビールを飲んでいました。バルセロナの気候にも合っているし、とにかく美味しいのです。

 美術館を見終えて、美術館の裏にまわります。さらに丘を登ると、オリンピックスタジアムがあります。バルセロナオリンピックでメインスタジアムとして使われていたところです。この時期は、サッカーのFCバルセロナのホームスタジアムであるカンプノウが改修工事中のため、バルセロナのホームスタジアムとなっていました。隣にはオリンピック博物館があります。様々な競技の写真が飾られていました。入場者はそれほど多くないようです。

そこから、さらに丘を上ります。次に行ったところは、ジョアン・ミロ美術館です。バルセロナ出身の芸術家である、ジョアン・ミロの作品が集められています。ミロの作品は抽象絵画と呼ばれるものに分類されます。おそらく、同時代のピカソシュールレアリストたちに影響を受けたものです。絵画以外に彫刻作品も残しています。この美術館の2階のテラスからの眺めは素晴らしかったです。カウチも置いてあり、しばらく休憩することができました。

 丘はさらに続きます。頂上のモンジュイック城まで、もう少しのところまで来ました。途中にケーブルカーの駅があります。今回はケーブルカーには乗らず、あえて歩いてモンジュイック城まで行きました。最後の急な坂を上り、やっと城に到着。モンジュイック城の入り口には、いまだに大砲が置かれています。普通のイメージの城というよりも、城砦といえるでしょう。モンジュイックの丘は古くからバルセロナの市街を守るための戦略的要塞でした。逆に、この丘を占領され、市街に向けて砲弾が発射されたこともあるようです。城からの眺めは素晴らしいです。バルセロナ港湾都市なので、タンカーやコンテナが海の方に見えました。海鳥が沢山いました。ただ、海側よりも、山側の景色が良かったです。ここから見ると、サグラダ・ファミリアも小さく見え、宇宙に向けて飛び立とうとしているスペース・シャトルのようです。

 頂上まで登ってしまえば、あとは丘を下るだけです。下るのはあっという間です。下りは、ケーブルカーを使い、地下鉄駅のあるところまで下りました。だいたい半日もあればモンジュイック地区を回ることができます。

 バルセロナは、スポーツも盛んであり、芸術、建築も一級品の街です。まずガウディ作品を見るべきですが、それが終わったら、モンジュイックの丘に行ってみてはいかがでしょうか。

 

 

ロダンと静岡県立美術館

 静岡市にある静岡県立美術館に行ってきました。JR草薙駅から徒歩で25分くらいのところにあります。パリでロダン美術館を見てきましたので、日本でもロダンを見たいと思い、調べてみると、静岡県立美術館にロダン館があることがわかりました。

 美術館は丘の上にあり、このあたりはおしゃれなカフェや、県立大学のあるエリアとなっています。丘を上って美術館に着くと鞄をロッカーに置きました。ロダンの彫刻作品は別館にあります。聖書をモチーフにしたデューラーの版画も展示されていました。そのスペースを抜けて別館に移動します。別館にはロダン以外の20世紀の彫刻作品もありました。これだけ多くの彫刻を収集している美術館も日本国内では珍しいと思います。

 入り口近くに「花子」の像があります。ロダンマルセイユで見た日本の旅芝居の一座の公演を見て、花子の演技に魅了されたといいます。パリのロダン美術館、またの名をオテルビロンといいますが、そこでの「花子」像制作の様子は森鴎外の短編「花子」に描かれています。日本人でロダンのモデルとなったのは花子だけです。花子は美人ではありません。しかし、ロダンは彫刻家の目で花子を見、その中に美を感じたようです。ロダンは合計58点の花子の彫刻を製作しました。

 ロダンは他の芸術家たちの像を作ることも多かったようです。まずは画家のクロード・ロランやバスティアン・ルパージュの像があります。詩人のボードレールや小説家のバルザックの彫刻も展示されています。パリのロダン美術館にはユゴーバルザックの像が多くあります。ロダンは彼らの小説が好きだったのでしょう。バルザックに関していえば、頭部像以外にも、立像も多く製作したようです。この美術館には、頭部の像と首から下の全身像があります。バルザックロダンよりも少し前の時代の人ですから、ロダンバルザックの像を作るときには写真を見たり、実際にバルザックの服を仕立てた服屋にも行ったりするなどして、正確なバルザックの像を作ろうとしていたようです。そうして出来上がったバルザック像は、発注した文芸家協会から受け取りを拒否されるなど、物議を醸します。現在は、パリのラスパイユ通りにそのバルザック像はあります。

 

バルザックの頭部像


彼の代表作の「考える人」を見ると、ミケランジェロの彫刻を思い出します。ミケランジェロダヴィデ像が、ロダンの考える人に対応しているように思います。とは言っても、力強さや美、自然さという点ではダヴィデ像の方が上回っています。ロダンはイタリアに行ってミケランジェロの彫刻に影響を受けています。ミケランジェロダヴィデは、また、ドナテッロのダヴィデにまでその源泉を遡ることができます。

 考える人はもともとロダンの「地獄の門」の付属の彫刻を抜き出してきて独立させたものです。ロダンは、代表作である「カレーの市民」や「地獄の門」の一部を独立した一つの彫刻として作品にしています。地獄の門はダンテの神曲にインスピレーションを受けて制作されたものです。「考える人」は地獄の門の上部に取り付けてあり、地獄を見下ろして考えている、という構図です。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という言葉を思い出します。ロダン地獄の門を作成する上で参考にしたのが、フィレンツェにあるギベルティの「天国の門」です。ちなみに、ドナテッロはギベルティの弟子にあたります。また「天国の門」はミケランジェロ命名したという伝説が残っています。10枚のパネルに旧約聖書の物語が表されています。昔は字が読める人が少なかったので、絵や彫刻で聖書の物語をあらわしていました。

 この美術館にはカレーの市民の第1試作があります。フランス北部の街カレー市には、イングランドエドワード3世に包囲され、飢餓に陥った時に市の主要メンバー6人が投降することにより助かった、という伝説があります。「カレーの市民」から独立した6体の彫刻はそれだけを見ても迫力のある出来栄えです。このカレーの市民像も当初はロダンの意図の通りには設置されませんでした。市民の求める英雄的表現ではなく、陰気な像だったからです。注文主の注文通りではなく、自分の思ったような作品に仕上げてしまうのが、真の芸術家ということでしょう。ロダンいわく、「もし急いだり行き着こうとあせったり、労働それ自身を目的として考えなかったり、成功、金銭、勲章、注文などを思ったりしたら、おしまいです!けっして芸術家にはなれません。」

 静岡県立美術館は、彫刻作品が好きな私は楽しめました。イタリアに行ってミケランジェロやベルニーニの彫刻作品を見てから私も彫刻というものに興味を持つことになりました。やはりどんなものでも一流の物、傑作に触れることは大事なことです。

サグラダ・ファミリアと日本の彫刻家


 バルセロナにガウディの建築を見に行きました。まず、サグラダ・ファミリアから。この教会は未完成です。2026年に完成する予定とのことです。季節は夏、お昼頃の時間を予約しており、戸外に居ると直射日光が痛いくらいです。日本のように湿度がないので過ごし易いです。

 サグラダ・ファミリアには3つのファサードがあります。このうち、「栄光のファサード」は現在完成していません。「生誕のファサード」が一般観光客用の入り口となっていて、まずここから見ました。イエスの生誕をテーマとした彫刻で飾られています。3つのファサードのうち、ガウディ自らが彫刻したのは生誕のファサードだけです。入り口には扉が3つあり、それぞれツタや葦、野バラの彫刻が施されています。ツタのある扉には、トンボやカブトムシの彫刻も彫られていました。これらは日本人である外尾悦郎氏の作品です。日本人らしく、小さなところにまでこだわりが見えます。外尾氏は、京都市立芸術大学の彫刻科を出た後、しばらく美術の教師をしていたようです。ある時、どうしても石が彫りたくてたまらなくなり、ヨーロッパに渡り、バルセロナサグラダ・ファミリアに出会ったようです。その頃のサグラダ・ファミリアは今のように有名ではありませんでした。その上、無理に頼み込んで石を彫らせてもらったとのことです。今では、外尾氏は主任彫刻家となっています。サグラダ・ファミリアも有名になり、観光収入も大幅に増えました。ちなみに私も大学を出てから数年間は何をして良いのか分からず、あちこちの塾で数学や英語を教える生活をしていましたから、なんとなくシンパシーを感じます。

 聖堂内に入ると、ステンドグラスから射し込む光が、美しい。シャルトルの聖堂は、青が基調ですが、ここは、赤が素晴らしい。午後になり、西日が差すと、赤いステンドグラスから赤い光が射し込む。その光が荘厳でした。教会内部には座れるところが沢山あるので、しばらく座って過ごしました。内部の基本的な構造は、ゴシックの教会と同じです。もしくは、バルセロナに固有のゴシックとでも言いましょうか。内陣は、森の中にいるようです。自然からインスピレーションを受けて建築したのだと言われています。

 反対側にまわり、受難のファサードも見ました。こちらは、ガウディの製作ではなく、弟子のジュゼップ・マリア・スビラックスの制作です。そのグロテスクな彫刻は現代風でありますが、ガウディの彫刻から影響を受けているのは間違いありません。顔のないキリストの磔刑像やユダの接吻など、イエスの受難をテーマとしています。

 生誕のファサードと受難のファサードとにはそれぞれ塔があり、どちらか1つに登ることができます。私は、バッハのマタイ受難曲が好きなので、受難のファサードに登りました。まず、エレベーターで地上約60Mくらいのところまで登り、そこから階段で少し登ります。頂上付近の果物のような彫刻を見たり、バルセロナ新市街の景色を見たりしました。見晴らしのいい展望台はなく、塔自体の壁によりかなり限られた景色でした。ここはかなり高いですので、高所恐怖症の方は要注意です。村上春樹澁澤龍彦サグラダ・ファミリアの塔に登った文章を読んだことがありますが、二人とも高所恐怖症らしく、怖かった、高くて気持ち悪い、と言うことを述べておられます。私は、高所恐怖症ではないですので、普通に見学をしました。ヨーロッパでは、高い塔に登るのはよくあることです。コペンハーゲンの救世主教会の塔の方が怖かったです。救世主教会の塔の上の方は、手すりがなくなるのです。サグラダファミリアは一番上まで登ったら、あとは階段をひたすら1階まで降ります。途中に景色が見えるビューポイントがいくつかあります。

 サグラダファミリアの地下にはガウディの墓があると聞いていましたが、地下礼拝堂には入れませんでした。これは残念です。しかし、聖堂の地下にはサグラダ・ファミリアの資料を展示する資料室もあり、そちらには入ることができました。東京国立近代美術館で開催されていた、「ガウディとサグラダ・ファミリア展」でも見たような、ガウディの建築の資料が展示されていました。カテナリー曲線を利用する実験も行うなど、デザインだけでなく技術的な面でも新しいことを取り入れていました。

 冒頭でも言ったように、サグラダファミリアは未完成です。作品が未完成のまま作者が死ぬということは、人の死が予測できないものである限り仕方のないことではあります。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」も未完成ですが、一つの傑作として後代に残っています。中世のゴシックの教会も2世紀近い年月をかけて建てられました。サグラダファミリアは私の生きている間に完成を見ることができると思いますが、未完成のままでも傑作として見ることのできる、唯一無二のオリジナルの建築作品でした。

 

サグラダ・ファミリアのステンドグラス

 

パリ再訪、クロズリー・デ・リラ

 バルセロナサグラダ・ファミリアを見に行ったついでに、パリを再訪しました。初めてパリに行ったのは、もう7年ほど前になります。その時は、パリに7泊ほどして、パリの名所を見て回りました。今回は、サン・ジェルマン・デ・プレ地区のホテルに泊まり、前回見ていなかったロダン美術館を見に行きました。オーギュスト・ロダンは19世紀から20世紀初めまで生きた彫刻家です。彼の代表作である「考える人」は誰でも知っていることと思います。東京の国立西洋美術館の入り口にも、「地獄の門」や「カレーの市民」など彼の彫像のいくつかがあります。

 ここには、ロダンの作品が集められているわけですが、ロダンの絵画も少しだけありました。自画像です。ロダンが彫刻だけでなく、絵画も描いていたということを、初めて知りました。また、同時代を生きたバルザックヴィクトル・ユーゴーをモデルとした彫刻も多いです。それ以外にもグスタフ・マーラーボードレールなどの彫像もありました。ひっそりと静かな環境で、それほど混雑もしていない美術館でした。中庭にも作品が展示されています。1時間ほどで見て回れました。ロダン美術館を出て、すぐ近くにある廃兵院のナポレオンの墓を見ました。前回パリに行った時にも見たのですが、ナポレオンの墓は見応えがあります。今度のパリ・オリンピックのマラソンのゴール地点にも選ばれています。パリには有名人の墓が沢山あります。中でも、このナポレオンの墓や、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓などは見る価値のあるものです。

 前回パリに行った時に記憶に残っていた、トロカデロ広場に行きました。トロカデロは、エッフェル塔と一緒に写れる記念写真のスポットです。ここには人が沢山います。しばらく思い出に浸った後、コンコルド広場やノートルダム大聖堂に行きました。コンコルド広場は工事中、ノートルダム大聖堂も工事中でした。そこからカルチェラタンのサンミシェルの泉の彫刻も見に行きました。ヨーロッパでは、噴水に付属している彫刻が素晴らしいです。日本と違い、水は貴重なものですから、水を求めて噴水に集まった人々の目を楽しませたことでしょう。

 パリでの移動には、レンタサイクルのヴェリブを使いました。パリは、京都に似ています。自転車で移動するのが便利なのです。以前よりもヴェリブが使いやすくなっていました。スマホのアプリで各ステーションのヴェリブの台数が確認できるようになっていました。サンミシェル広場からサンミシェル通りを南へくだり、ヘミングウェイも通ったというカフェ、「クロズリー・デ・リラ」に行きました。昼の12時頃でしたが、それほど混んでいません。このカフェはヘミングウェイ以外にもボードレールサルトルヴェルレーヌ等、多くの文人が通った事で有名です。ヘミングウェイが若い頃にパリに滞在していた時のことを語る「移動祝祭日」にこのカフェの名前が出てきます。この本のなかで興味深く読めるのは同じ作家であるフィツジェラルドのエピソードです。フィツジェラルドは村上春樹翻訳の「グレート・ギャツビー」で有名なアメリカの作家です。私も村上氏の著書でフィツジェラルドの名前を初めて知りました。彼の私生活は波乱に満ちたものでした。フィツジェラルドとゼルダ夫妻の行動や、フィツジェラルドの創作についてこの本で知ることができます。

 クロズリー・デ・リラのメニューには、ギャツビーの名前を冠したカクテルがあり、それと、「ヘミングウェイ風ステーキ」を注文しました。この料理の値段はそれなりに高かったです。しかし、思い出にはしっかりと残りました。

カクテル”GATSBY


「移動祝祭日」には、お金がなく昼飯を抜くというヘミングウェイの日常も描かれていました。このカフェでヘミングウェイは、長編のデビュー作である「日はまた登る」を書いたと言われています。現在でも俳優のジョニー・デップが常連とのことです。パリの街中では、そんなジョニー・デップをフィーチャーしたDiorの香水“sauvage ”の広告を見かけました。クロズリー・デ・リラは観光地の近くにはなく、少しパリの中心地からも離れています。それでも立ち寄る価値のあるお店でした。この店で文章を書いたら、良いものが書けるかもしれない、そう思わせるところでした。

 

 

シャルトル

シャルトル


 8月の終わりにシャルトルの大聖堂を見に行きました。シャルトルはパリのモンパルナス駅から電車に乗り、1時間ほどのところにあります。モンパルナス駅で切符を買うのに手間取りました。言語を選ぶのに、ダイヤルのように回すということに気づくのに時間がかかりました。

 シャルトル駅を出て、少し歩くとすぐに大聖堂が見えてきます。だから、迷うことはありませんでした。それだけ、シャルトルのカテドラルは、大きいです。近くに行くと、より大きさを感じます。カテドラルには、塔が左右に一つずつあります。高さが左右で少し違います。左がいわゆるゴシック様式、右がロマネスク様式です。ロマネスクの方が作られた時代が古いのです。後で作られた方が少し高くなっています。塔にはツアーで登ることができますが、時間が合わず、行けませんでした。次の機会に行ってみたいと思います。

 左右対称にしなければいけない、というのも我々の思い込みだということに気づかされます。左右対称でないものが美しいというのも、驚くべきことです。

 カテドラルに入ると、豪華なステンドグラスが目に入ります。主祭壇の周りの彫刻もなかなかよく出来ています。もともと、彫刻や、ステンドグラスは、聖書の文字が読めないキリスト教徒が、キリストや使徒の物語が視覚的にわかるように作られたものです。たくさんの聖書に関連した聖人が出てくるようです。

 このカテドラルはフランスで最も美しいと言われています。ステンドグラスは外から見ると暗い色ですが、建物の中から見ると、綺麗な彩色が施されています。教会の四方の壁面のどこをみても青を基調としたステンドグラスが見られました。この青い色はシャルトルブルーと呼ばれています。

 ミサが行われていたのでしばらく座って聞いていました。信者の方は立ってお祈りをしています。曜日ごとに決まった時間にミサが行われているようです。

 シャルトルには、カテドラル以外に特に観光するべきところはありません。日帰りで、パリに戻らないといけなかったのですが、夕飯をシャルトルで食べてから戻ろうと思っていました。帰りの電車の時間は21時頃です。ヨーロッパの日没は遅く、8月は21時くらいまでは明るいのです。カテドラルを出てシャンジュ通りを下り、人の流れに乗って、途中で曲がり、商店街をしばらく歩くと、本屋があったので、中に入りました。流石にフランスだけあって、文学や詩の棚が充実していました。メルヴィルの詩集も売っていました。メルヴィルの詩集など普通の日本の書店では売っていないでしょう。そんなに大きな街ではないのですが、それなりの品揃えを誇っていました。日本でも田舎の街の本屋では、漫画と少しの文庫本と、雑誌、猥書くらいしか置いていないところもあります。街の本屋を見れば、その街の文化度が分かるというものです。

 本屋を出て、ピ通りを進むと、マルソー広場に出ました。この広場のカフェには人が沢山いました。きっと美味しい料理を出すのだと思います。この広場にあるショコラトリーでメンチコフというお土産を買いました。シャルトルの銘菓だそうです。これは美味しかったです。そのまま通りを進むと、エパール広場に出ました。この広場には、シャルトル唯一のミシュラン星付きレストランがあります。ここで、19時になったので、広場からまたカテドラルに引き返しました。

 カテドラルにまた戻ってきて、カテドラルの前の広場にある店で食事をしました。シャルトルの方が、首都であるパリよりも食事の値段が安くすみます。しかし、今回の旅では、パリでの食事よりも、シャルトルでとった食事が印象に残りました。地元の食材を使った料理で、ワインも美味しかった。特にテリーヌの味が忘れられません。流石にカテドラルがこの街の中心です。カテドラルの前にあるお店の評価が高いようです。パリよりも英語が通じないのが難点です。日帰りでカテドラルをみてすぐにパリに戻ることもできますが、ゆっくりと街を散策したり、食事をとったりするのも悪くありません。一度行ってみる価値のある街です。

バルザック「グランド・ブルテーシュ奇譚」

 今回はバルザックの短編集についての書評である。バルザックの翻訳は多数出版されている。その中で、岩波文庫の訳はかなり古いので、注意が必要である。旧字体でそのまま流通しているものもある。旧字体では、内容を理解する以前に、読み進める困難さが生じてくる。現在は光文社古典新訳文庫から読みやすい訳が出ている。

 表題作「グランド・ブルテーシュ奇譚」はパリの南西にあるヴァンドームという町を舞台にしている。町にある廃墟となった屋敷にまつわる物語である。物語は同時的にではなく、屋敷で働いていたことのある、宿屋の女将の口から過去のこととして語られる。

 バルザックの作品には、他の作品で登場した人物が再登場する。今回は、「ゴリオ爺さん」でラスティニヤックの友人の医師として登場した、ビアンションが仕事のためヴァンドームに滞在し、その時グランド・ブルテーシュ館の奇妙な物語に出会う。人物再登場の手法は、画期的である。これによって、読者は他のバルザックの作品にも興味を持つようになり、作品がより売れる。バルザックの創造した人物群が活躍する作品の総体を「人間喜劇(La Comédie humaine)」という。人間喜劇の中では、ある作品の主役が別の作品では脇役となり、その逆もある。

 「ことづて(le message)」は、死んだ男の代わりに、その男の恋人にメッセージを伝えるという筋書きである。仏文学では、たいていの恋人は人妻である。そして、恋人は美人で魅力的であり、その夫は愚鈍な人物として描かれる。若い男は、35から40歳くらいの女に魅かれるのだ、とバルザックは言う。

 「マダム・フィルミアーニ」では、様々なタイプの人々がそれぞれの見方でフィルミアーニ夫人を論評したあとで、夫人の恋、夫人のために財産を放棄し清貧に生きる青年オクターブの話が語られる。オクターブ青年はフィルミアー二夫人とグレトナ・グリーンで結婚したという。(グレトナ・グリーンとは、イングランドスコットランドの境にある町で、駆け落ち婚で有名である。)ハッピーエンドの物語である。

 5つの作品がある中で最も面白いと感じたのが、「ファチーノ・カーネ」である。盲人のクラリネット吹きであるカーネ爺さんから、パリの居酒屋で、爺さんの身の上話と、ヴェネチアの黄金についての話を聞く。この物語を書いた時、バルザックヴェネチアには行ったことがなく、作品発表の翌年、ヴェネチアに滞在することになる。カーネ爺さんは、元ヴェネチアの貴族で、実在の傭兵隊長であるファチーノ・カーネの子孫であると主張する。若きカーネは、恋人の亭主を殺し、ドゥカーレ宮殿の牢獄に繋がれる。カサノヴァが脱獄したことで知られる牢獄である。

 カーネは、母親が妊娠中、黄金への情熱に取り憑かれていたため、黄金の存在を嗅ぎつけることができる。同じような話は、ホフマンの短編にもある。ホフマンの方が時代的には、先であるが。牢獄から脱獄するため、穴を掘る作業をしているときに、宮殿内の黄金の存在に気付いたカーネは、脱獄に成功した時に、黄金を持って逃げた。後年、粉塵の中で穴を掘ったことが原因でカーネは失明する。話を聞いてくれた「わたし」に、カーネは一緒にヴェネチアへ行って黄金を探すように誘いをかけるのだが・・・。

 実際に行ってみるとわかるが、ヴェネチア総督の館(ドゥカーレ宮殿)と牢獄は同じ建物の中にある。だから囚人が穴を掘った先に黄金がある、ということもまんざら実際を離れた話ではない。ドゥカーレ宮殿に黄金を探しに行く前に、カーネ爺さんは死んでしまい、その後どうなったかは分からずに話が終わる。「わたし」も、狂人のたわごととして、そこまでカーネの話を信じて聞いていない。

 ヴェネチアというのは、様々な文学作品のテーマとなった土地である。そこに行ったことがあろうがなかろうが、詩的な関心を掻き立てる土地である。

 バルザックは小説だけでなく評論も書いた。小説家になる前は印刷業にも手を出していた彼の書籍業に関する評論は、現在に読んでもなるほどと思わされる。「書籍業の現状について」を読むと書籍業の歴史が分かる。元々は書籍の印刷から販売までを一つの業者が手掛けていたが、バルザックの時代になって、①印刷、製本する業者②書籍取次、卸業者③書店に分かれた。これは現行の書籍業にかなり近い。そもそも仕事というものは、草創期は全てを1人でやっていたものが、時とともに分業化していくものである。バルザックは、作者と読者をダイレクトに結ぶ、ブッククラブを構想していた。しかし、実現はしなかった。

 バルザックの人生には失敗も多い。劇作家や印刷業に失敗し、小説家として大成功した。大成功するには、大失敗が必要なのかもしれないと、バルザックの人生を見ると思ってしまう。