モリエール 人間嫌い

 十七世紀フランスの劇作家・モリエールの喜劇である。当時の社交界の悪風習への批判、諷刺の込められた作品。

 主人公・アルセストはセリメーヌという女性に熱を上げている。しかしセリメーヌに言い寄っている男性は他にも何人かおり、実はセリメーヌは言い寄ってくる男性全員に気のあるそぶりをしている。最後はそれが露見し、男たちはセリメースから離れてゆく。また、アルセストはその歯に衣着せぬ言動が災いし、あちこちでトラブルを起こす。世の中に絶望したアルセストは、人里離れたところに引っ込んで生活しようとするのだが・・・

 アルセストと親友フィラントの会話でこの劇は始まる。率直一点張りのアルセストは、フィラントが社交界で心にもないお追従を言っているのを非難する。例えば、宮廷人に詩の感想を聞かれて、フィラントはその詩を褒めそやすが、アルセストは、この程度の物なら、詩を書こうという気など全然起こさない方が良い、と正直に言う。まだ経験が浅く、世間を知らない青年によくありがちな、理想主義で極端な意見を持っており、厭世的なところがある。対してフィラントは世間慣れしており、その意見はアルセストの対極にあり現実的である。人間が悪事を働き、自分の利益に汲々とするのでさえ、それは、飢えた熊鷹や怒り狂った狼を見るのと同じで、人間の本性である、と考えている。アルセストが、世相を嘆き、社会から離れて暮らす、と言ったときにも、人間に欠点があればこそ、哲学を練る道があり、もし、何事も正直ずくめであれば、美徳というものも、大部分無用となってしまう。こちらが正しい場合、他人の不正を気持ちよく耐え忍ぶのが美徳である、と真っ当な意見を言う。

 またアルセストは訴訟事件を抱えており、法廷で弁論しなければならないが、そこでも裁判官に働きかけて有利に裁判を進めようとしない。法廷での弁論のみで勝訴を勝ち取ろうという気でいる。現実では、まさかそれが原因で敗訴になることはないとは思うが、劇中では、アルセストは裁判で負けてしまう。

 アルセストの青さ、正しいことを主張しさえすれば良いのだ、と言う純朴さは、多くの若者が持っている。率直さも真面目さも一つの美徳ではあるが、それが極端になってしまうとマイナスとなる。そこが笑いにつながるのである。

 セリメーヌの性格は女性によくある類型を表していると言える。一般的にセリメーヌのような女性はコケットと呼ばれる。周囲の誰にでもいい顔をしようとする女性を、日本では八方美人というが、これとよく似たタイプである。セリメーヌはまだ若く、男性が引きも切らずに寄ってくるのだが、歳をとるとそうもいかないだろう。本作にはアルシノエという女性が登場する。アルシノエはいくらか年かさで器量も良くない、誰にでも分別を説く女で、ちょうどセリメーヌの対極に位置する。アルセストは、アルシノエやセリメーヌの従姉妹のエリアントからも想いをかけられている。それなりのモテ男である。

 アルセストは悪い風習に染まったセリメーヌを愛の力で洗い清めてみせる、と言ったが、これも大方の予想通り失敗に終わる。古今東西、おそらくそれを試みた男性はごまんといるだろうが、そんなことに成功した者は一人としていないだろう。劇の最後で、結局、アルセストはセリメーヌが結婚しても変わらないと悟り、セリメーヌと別れる。アルセストは、これから人里離れた所へ行ってそこで暮らす、と行ってフィラントと別れるが、フィラントは、そんなアルセストの計画をぶち壊そう、と言って、幕が下りる。

 モリエールは本名ジャン・バティスト・ポクランとして裕福な家具職人の長男として生まれ、上流の子弟と肩を並べて哲学や人文学の教育を受けた後、オルレアン大学で法律を修めた。弁護士の道を進んだのはごくわずかの期間だけで、四歳年上の舞台女優マドレーヌ・ベジャールとの出会いにより、モリエールは舞台俳優、劇作家に転向することとなる。この頃名前もモリエールへと変名する。ベジャールと劇団を興すも、経済的に破綻してパリを追われ、地方巡業を行う。十三年間南仏、西仏を中心に興業を続け、劇作家としても修行を積む。パリに戻り、パレ=ロワイヤルの劇場を本拠として次々と作品を発表する。モリエールは三十六歳にしてフランス演劇の中心となる。代表作は表題の他に「タルチュフ」「ドンジュアン」「守銭奴」「いやいやながら医者にされ」「町人貴族」など。

  本書は、アメリカの大学でも講義の課題のテキストとなっている。一人の青年が社会に出て行く前、社会では必ずしも正しい事ばかりではないことを若い学生に教えてくれる本となっている。内容も面白く、薄くて気軽に読めるので、大学生が読むと読むと良い本である。