キルケゴール 死に至る病

 何年か前に、デンマークを旅行したことがある。皆さんは、デンマークの有名人をご存知だろうか?まず最初に思いつくのは、アンデルセンだろう。その次に来るのが、哲学者キルケゴールである。今回は、キルケゴールの「死に至る病」について書こうと思う。

 まず、キルケゴールについて軽く触れておく。キルケゴールの哲学は実存主義哲学の先駆けと言われており、ハイデガーヤスパースサルトルなどに影響を与えた。父は資産家であり、若くして莫大な財産を父から受け継いだ。これにより、キルケゴールは働くことなく創作活動に集中する事ができた。コペンハーゲン大学で神学を学んだのち、自分が34歳で死ぬと思っていたキルケゴールは、34歳になる前の4年間に数多くの著作をものした。その間に多くの財産も使い尽くした。(結局、彼は42歳まで生きた。)「死に至る病」は経済的に苦しくなってから、離縁した婚約者との関係や内面的な葛藤もあり、偽名で出版された。生前は嘲笑の的となることもあり、死んだ時にはほとんど顧みられなかったが、死んでから50年ほどしてから作品が徐々に注目を浴びるようになった。

 死に至る病とは、絶望のことである、とキルケゴールは言う。本書でいう絶望とは、普通の意味の絶望とは違う。ここでは、絶望とは、人間の自己が神を離れ、神を見失っている状態のことである。

 絶望とは、死に至る病であると言っておきながら、また、キルケゴールは、こうも言っている。絶望という病のために死ぬわけではなく、むしろ、死ぬことさえもできないという希望のなさが絶望であると。死にながらも死ねないという矛盾が、絶望なのである、と。要するに、もうおしまいになりながら、しかも死ねないというのがキルケゴールのいう絶望なのである。〇〇はAでありAでないという一見矛盾したことばが何度も出現する。禅問答のようでもあり、言葉遊びのようでもある。このような時、弁証法という言葉が使われる。弁証法とはキルケゴールにおいては一つのことについて互いに矛盾することが同時に言われる時に使われる。

 キルケゴールは、牧師になろうと思っていたほどだったから、本書には、神とか、キリスト、聖書という言葉がしょっちゅう出てくる。だから、この本は、哲学的な立場でキリスト教について語った本であると言って良い。第1編で絶望の様々な形態について述べた後、第2編で、絶望と罪について述べている。キルケゴールの繰り返す、罪の定義とは、神の前で絶望して自己自身であろうとしないこと、あるいは、神の前で絶望して自己自身であろうと欲することである。そして、罪の反対は信仰であり、信仰とは、絶望の全く存在しない状態である、と述べて、本書は終わる。

 ところどころに見られる、キルケゴールの深い洞察も面白い。

 自己について。自己というものは、世間では最も問題にされないものであり、自己を持っていることに気づかされることが何よりも危険である、というのには肯かされる。他のものを失っても、すぐに気づくのに、自己を失ったことには気づかない。人間は、自己を忘れ、他の人々と同じようにしている方が、はるかに気楽で安全だと思ってしまう。また、自己自身を失うことで、世間で成功する達者さを勝ち得ることができる。自己はありのままの状態では角のあるものだが、その角は研ぎ落とされなければならないものではない。むしろ、研いで尖らされなければいけないものである。

 孤独への要求について。孤独な時間が多い人間の方がより一層深みを持った人間であり、自分が絶望しているということにも気づくだろう。逆に、孤独であることが少ない人間は、それだけ自分の絶望しているということに気づかない。絶望していない、また、絶望しているということを意識していないということ、これも絶望の一つの形態である。

 読書をする人間は、ある程度、孤独に慣れていることが多い。孤独を好む人に、「死に至る病」を読むことを勧める。

キルケゴールの墓