天橋立と与謝野晶子

 年明け早々、京都駅前でレンタカーを借りて、天橋立まで行ってきた。松島、宮島とともに日本三景の一つに数えられる天橋立だが、いってみると、昭和天皇や、与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑があったりと、詩情に溢れるところであった。与謝野晶子と関連して今回は、「みだれ髪」について書くことにする。

 みだれ髪は晶子が二十三歳で発表した処女詩集である。詩の才能というのは、時とともに摩滅することもある。一番最初の作品が最高作である場合もある。ランボオのように、二十歳までに詩才を使い切ってしまう場合もある。晶子の場合、「みだれ髪」後も作品を発表し続けたが、処女作を超える作品を生み出すことはできなかった。詩にとって、若さのエネルギーは大事なものである。

 みだれ髪を読んでいると、ところどころ、意味のよくわからない歌が出てくる。そもそも発表当初から、歌の意味がわからない人が多かったようだ。雑誌「明星」内部の人にしかわからない閉鎖的言語の使い方、省略があったからである。だから、意味がよく分からなくてもどんどん読み進めていくのがよい。

 晶子は、子供の頃から平安朝女流文学に親しんできたため、京都の町の情趣に憧れを持っていた。清水や祇園賀茂川など、京都の情趣、風俗を歌に詠んだものも多い。そういった歌にも良い歌がある。

 晶子の歌で最も有名なのが、「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」であろう。この歌により、晶子は「やは肌の晶子」と呼ばれていた。この歌で「君」と呼ばれているのは、夫の鉄幹である。晶子以外には詠めそうにもない、情熱的な歌である。

 晶子は大阪府堺市の出身で、子供の頃から文学少女であった。夫の与謝野鉄幹京都市の出身である。天橋立の近くに与謝野町があるが、そのあたりにルーツがあるらしい。晶子が鉄幹と出会った頃は、鉄幹には妻がいたのだが、それでも、というか、障害があるがゆえに若さと愛情が迸り、良い歌が作れたのだろう。鉄幹と、晶子と、山川登美子との三角関係や鉄幹の離婚などがあった後で、ようやく正式に鉄幹と結婚する。「みだれ髪」以降、鉄幹の詩の売れ行きは振るわず、そのせいもあって、晶子は短歌以外にも評論や童話など、仕事の依頼があればなんでもこなしていった。鉄幹と共にパリに滞在して見聞を広め、パリの風俗を歌に詠んだりもした。晩年の自選歌集では、「みだれ髪」の歌は14首しかない。詩人にも思うところあってのことだろう。

 私は短歌を一日一首作っていた時期があった。それは京都に住んでいた時のことだ。東京に居ると、なかなか短歌を作ろうという気にならない。俳句の方が、東京には合っている。それだけ、詩というものは、地域に根ざした芸術なのかもしれない。酒も、作られた地域で飲むのが一番うまい、と村上春樹も言っている。京都から宮津まで行く途上、京丹波のサービスエリアで休憩をとった。そこで買った京丹波の地酒が美味しかった。長老酒造の純米吟醸酒である。詩人となることは無くとも、旅に出て見聞を広めることは大事である。みだれ髪を読みながら、天橋立を訪れてみてはどうだろうか。夏であれば海水浴もできるので、夏に行くのがお勧めである。