森鴎外 ウィタ・セクスアリス

 森鷗外のウィタ・セクスアリスについて。題名は、ラテン語でvita sexualisのこと、「性欲的生活」という意味である。哲学者の金井湛(かない・しずか)が自らの性生活について語るという体裁をとっているものの、実際には鷗外自身の性生活がモデルとなっている。最初の10ページくらい、どうして本書を書くに至ったかの経緯が記されている。同時代人である夏目漱石が小説を書き始めたことに触発されたり、自然主義小説が流行したり、ルソーやカサノヴァの告白記を読んだりした後で、息子に対する性教育を、自分の性生活の歴史を書くことで行えるか、ひとつ、書いてみようというところから始まる。

 本書は掲載雑誌「すばる」が発禁になったこともあり、読む前はとんでもない内容が書いてあるのか、と思って読んだが、意外にも生々しい描写も無いし、これで発禁か、と思うくらいの内容である。幼い頃の記憶から始まり、2度目の結婚をする前までの性生活についてが基本的な内容である。

 鷗外の学生時代には、男色というものがあったようである。男色とは、ホモセクシュアルのことだ。昔の学校は男女別学である。寮の中で鷗外はお尻の穴を狙われていたという。鷗外自身には男色の傾向は無かった。身を守るため、短刀を懐中に入れていたことも書かれている。女性に興味のあるのを軟派、男色を嗜むのを硬派と称するのには驚いた。現在とは言葉の使い方が違ったようだ。佐賀や熊本など九州出身の者は硬派であり、その他の地域の出身の者は軟派のため、硬派は少数派であったようだ。いま、国会では、LGBTの法案を成立させようとしているようだが、日本にも、今も昔も性的少数派がいたのであって、それが外国からの影響で禁止されたり、はたまた多様化を認められたりしているだけなのだ。そういう意味では少数派の性まで含めた、今も昔も変わらぬ人間の性を扱った内容である。

 学生時代の話が多い。7割くらいは大学を卒業するまでの話である。鷗外は、大学を卒業するまではセックスはしなかったと述べている。そして、そんな者は少なかったようだ。登場人物のほとんどに実際のモデルがあり、ある人は芸者に入れあげて学校を中途で退学したりしている。恋愛で身をもち崩す事はよくあることである。そのような人間の何人かを、その後の人生も含めてどうなってしまったかまで書いている。私は、恋愛、人生に関して、学生時代の後どうなったかまで見るのは重要であると思う。そうすることで、自分の参考にもなる。性的なこと以外に、学生時代の若い鷗外と友人たちの友情のエピソードも垣間見ることができる。

 人間というものは、大人になっても、10代の頃の性生活を繰り返すことが多いものだと思う。だから、二十歳くらいまでの性についておおよそ知ることができれば、十分ではないか。どのみち、30代を過ぎれば性欲は衰える。本書は20代前半くらいまでのエピソードで終わっている。それだけ知れば、、性に関しては十分である。冒頭で述べたように、息子に対する性教育のつもりで書き始めたものだが、書き終わったあとで、初めから終わりまで読み返してみて、やはり、息子にも読ませたくはない、と言う結論に至る。それで、書庫に本書を放り投げる場面で終わっている。まことに面白い終わり方である。ただ、息子に読ませて読ませられないものでもない、と言っているように、別段10代の青少年が読んでも害にはならない内容である。もちろん教育を行う大人が読むのも参考になる。性に興味のある、知的な人であれば、誰が読んでも益になると思う。そのような人々に、本書をお勧めしたい。