倫敦塔
夏目漱石の作品に、「倫敦塔」というものがある。漱石がロンドンに留学したときに倫敦塔を見た時の印象、さらにはその時の空想について書かれている。倫敦塔は、元々はローマ時代に作られた要塞であった。テムズ川に面していて、囚人などの護送船を引き入れる場所もある。監獄としても使われていた。王室に伝わる財宝もある。ロンドンに行ったら、倫敦塔を見ようと思っていた。漱石の倫敦塔を読んで、興味があったからである。
漱石の「倫敦塔」にも書かれているように、ロンドンで単に「塔(The tower)」と呼ばれるのはこの倫敦塔であり、また、塔というのは名ばかりで実際はいくつかの櫓から成り立つ城である。イギリスの歴史が詰まっているとも言える。漱石の言う、櫓とは英語ではtowerと呼ばれるものである。見物者は、その幾つかのtowerの中を見て回ることになる。どのtowerにもあるのは、そこに幽閉されていた囚人(罪人や、王家の人々、また、カトリックを布教しにきた神父など)の残した壁の落書きにも見られる、歴史である。
朝一番にロンドン塔を訪れた。ロンドン塔はホワイト・タワーを中心としており、ぐるりとそれを取り囲む、城壁から見る。城壁はいくつかの塔と通路から成る。塔のそれぞれに収監されていた囚人の説明書きがある。いちいち全て読んではいなかったが、とにかくたくさんの人を閉じ込めたものだ。中には拷問や処刑の様子まで書かれていて、気の弱い人にはあまり勧められない場所である。ひとまず、城壁を一周して回った後、中庭に出た。衛兵3人が守っている、"The Crown Jewels”という建物を見た。ここには世界最大のダイヤモンドや、王冠や王笏といった王室に伝わる宝物が展示されている。朝一番だったので並ばずに見れたが、並ばないと入れない時もあるという。ふつうの感覚からすると、王様が暮らしているところに囚人も居て、更に宝物も置いておくというのは危ないようにも感じるが、人にしろ物にしろそこに容易には入れず、脱出することも困難であるだけに、逆に盲点と言えるのかもしれない。そういえばヴェネチアの総督が住むドゥカーレ宮殿にも牢屋と宝物があるのだ。ドゥカーレ宮殿からはカサノヴァが脱獄したが、ロンドン塔からはイエズス会士が脱獄したという記録が残っている。イタリアには収監されてもちゃらちゃらした陽気な雰囲気がある気がするが、イギリスだと暗い絶望感しか感じない。その違いは気候の違いから来る。
中庭の中央にあるホワイトタワーを見物する。ここからは1674年に二人の子供と見られる骨が見つかっており、エドワードⅣ世の行方不明になった二人の息子であると噂されている。エドワードⅣ世が死んだ時に二人の息子が遺され、上の王子が王位を継承するはずだったが、叔父のリチャードが二人を非嫡出子であると宣言し、自ら王位を継いだ。二人の息子はロンドン塔に閉じ込められ、しばらくは二人で遊んでいる姿を目撃されたが、そのうちに誰も姿を見なくなった。漱石の倫敦塔にはエドワード4世の2人の王子の事が書かれています。この話が倫敦塔にまつわる怪綺談として、最も有名です。漱石の倫敦塔の中でも、2人の王子の会話、そして2王子に面会しようとする母、2人を暗殺した男の会話が描かれており、最も印象に残りました。ここまで空想する漱石の想像力は、恐ろしいな、と思いましたが、後記にシェイクスピアのリチャード3世の場面から借用した旨が書いてありました。全ては空想のことでありますが、非常に劇的な場面でもあります。
王位を奪ったリチャードは、その後、ボズワースの戦いで戦死しました。在位期間はわずか2年間でした。シェイクスピアの劇で悪く描かれましたから、現代でも悪いイメージはそのままです。最近になって、リチャードの骨が発見されたということです。
ホワイトタワーには教会堂があったり、王の甲冑や、拷問器具などが展示されている。漱石のように、ビーフィーターが説明してくれる事は無かったが、なるほど、確かに日本製の甲冑も展示されている。ビーフィーターとは、”beaf eater”のことで、国王の親衛隊だった者たちがロンドン塔の護衛も任されるようになり、昔は貴重だった牛肉を給金としてもらっていたことに由来する。正式の名称は「ヨーマン・ウォーダー」である。ビーフィーターというお酒もあり、ラベルにはこのビーフィーターの姿が描かれている。アルコール度数の高い酒で、40度あります。柑橘系の炭酸入りジュースと合います。ビーフィーターたちは毎年の誕生日にこのビーフィーターを1本もらえるとのことである。
ホワイトタワーを出た中庭には“scaffold site”(絞首台)と呼ばれる記念碑がある。どんな場所かというと、3人の王妃が処刑された場所だそうである。その三人の中で最も有名なのが、ヘンリー8世の王妃だった、アン・ブーリンである。ヘンリー8世には当初、別の王妃がおり、アンは愛人として迎えられた。しばらくしてアンは正式な王妃の座を要求した。カトリックでは離婚することができないため、王はローマ教皇庁との断絶を決めた。ここからイングランドの国教会の歴史が始まることになる。ロンドン塔にイエズス会士が幽閉されていたのも、このためである。
scaffold siteで処刑された王妃のうちもう一人は漱石「倫敦塔」の中にも出てくるジェーン・グレイである。ジェーン・グレイは女王に即位して9日で廃位され、16歳で斬首された女性です。漱石はロンドン・ナショナルギャラリーのポール・ドラローシュによる「レディ・ジェーン・グレイの処刑」から想を得てグレイの斬首の場面を描いている。ドラローシュは「ロンドン塔の若き王と王子」という、エドワード4世の2人の王子の絵画も描いている。漱石「倫敦塔」中で美しい女性がダドリー家の紋章について説明する場面はなかなかの怪綺談である。
このscaffold siteには現在ではBrian Catlingによる美しい記念碑が作られており、パッと見ただけでは残酷な歴史のあった場所だとは分かりません。漱石の「倫敦塔」の中では「仕置場の跡」と呼ばれているのがここです。漱石の時代にはまだ鉄柵で囲まれただけの場所であった事がわかります。記念碑と、そこに書いてある英語の説明を見ていると、近くでビーフィーターがロンドン塔の歴史の説明を始めました。30分に一度、ビーフィーターによるロンドン塔の歴史のツアーがあります。ベンチに座って、聞くともなくビーフィーターの解説を聞いていると、近くの芝生には鴉がやってきました。このあたりに鴉がいるのは、漱石の時代と変わらないようです。ロンドン塔を守ると言われる鴉は、小説の中では五羽ということになっていますが、本来は六羽いて、一羽でも欠けるとすぐに補充するそうです。近くにBeauchamp Tower(ビーチャム・タワー)があり(漱石はフランス語ふうにボーシャン塔と呼んでいるが、英語読みはビーチャムであろう。)漱石の言うとおり、この塔は壁の落書きが多い。何もすることのなかった囚人たちが、暇にまかせて壁に文字を彫りつけたものである。ビーチャム・タワーの壁はとにかく落書きだらけであった。写真は撮らなかったが、ネットの写真で「倫敦塔」の中のダドリー家の紋章と、その下の文字の画像はすぐに見つけられる。見てみると、漱石が犬だと思ったのも無理はない。漱石がはたと足をとめた、”Jane”の落書きも実際にある。
ビーチャム塔を出て、ロンドン塔もだいたい見終わったかな、と思ったが、まだBloody Tower(血塔)を見ていないことに気づく。急いで血塔に入る。エドワードⅣ世の二人の王子が幽閉されていたのもここである。ここで漱石は2王子の殺される夢想をしていたようだ。塔の中では二人の王子が幽閉されたエピソードが映像で流れている。血塔では、2018年に謎の横顔の落書きが発見されており、調査が進められているようだ。漱石の言うようにここに多くの人々が幽閉され殺されたのも事実だが、もともと”The Garden Tower”と呼ばれていたこの塔がBloody Towerと呼ばれるようになったのは、二人の王子の事件があったからである。
Bloody Towerを見て、ようやくロンドン塔見物が終わったようだ。逆賊門の傍の出口から出る。歴史があり、いわくがあり、多くの想像、物語が生まれる場所であった。
アラン幸福論とサントゥーアンのカテドラル
アランの幸福論は原題をそのまま訳すと「幸福についてのプロポ(断章)」である。93の断章から成っている。それぞれの章は独立しているので、順番通りではなく、ばらばらに読むことも出来る。この本の最初の献辞の部分で、アランは、本書では問題が細切れになっているが、そもそも、幸福も細切れに分けられているものなのである、と語っている。必然的にこの文書も細切れのものとなった。
本書をまだ学生の頃に読んだことがある。その時には大した感興は持たなかった。また、内容に関して同意出来ないことが多かった。古典1冊を苦労しながら読み終えたことにだけ満足したのだった。
「幸福論」と題される本で最も有名なのが本書である。他にも数学者・哲学者のバートランド・ラッセルの「幸福論」やドイツの哲学者ヒルティの「幸福論」もある。以上の3書を三大幸福論と呼ぶ。幸福論というものは、大学生くらいの時に一度、読んでみるといいのかもしれない。まだ社会に出ていない時に、これから起こることに対しての処方箋がある程度掴めるからだ。学生の時に読んでいてもわからなかったことが、社会に出てから色々な経験をすることで、わかるようになることもある。その時に興味のあることしか、読んでいて、心に残らないのだ。一度目は読み飛ばしてしまった箇所でも、しばらく経ってから読むと、引っ掛かることがある。現在抱えている問題点はその時々で違うから、読むたびに違う部分が心に残っていくだろう。アランの幸福論とは、そのようなタイプの本である。
ラッセルとアランの幸福論に共通して書いてある内容がある。人間は退屈して何もすることがないと不幸であるということだ。ラッセルやアランだけではない。論語にも、1日何もすることがないよりは、博打でもするほうがマシだ。という言葉がある。何もしないでいるとどうでもいいことまで考えてしまうのだ。大人であれば、仕事をある程度忙しくすることで、考える暇がなくなる。だから、無職でいるよりは仕事をしている方が良い。また、休日の暇な時間、仕事が終わった後の暇な時間の過ごし方についても、工夫をする必要がある。それはなるべくお金がかからない、簡単にできて、どこにいてもできることであるのが望ましい。
学生時代に本書を読んでから何年か経ち、仕事をしていて、今読むと惹かれるのは労働や働くことについての章である。「働くことは最もつらいことであり、最も楽しいことである。」というところは、働いたことのない学生の時に読んでも意味がわからなかった。私などは、むしろ、働きたくなくて大学卒業後もぶらぶらとしていたくらいなのだ。普通の会社勤めはできないだろうと思っていた。今は、意味が掴めた。働くことはつらい。だが、働く中に時として楽しいことがあり、そういう瞬間がなければ働き続けられないのだ。また、仕事には現在のことに没頭して余計なことを考えなくさせる効用もある。
「仕事は自分が支配者である限りは面白いが、支配されるようになると面白くない」という言葉にも納得させられた。「電車の運転士はバスの運転士ほど面白くない」これもそうかもしれない。上司に命令されて訳もわからずただ言われた通りにするだけの仕事ほど、つまらないものはない。自分であれこれ考えて動ける仕事の方が楽しいに決まっているのだ。それを考えると、現代的に分業化されて自分に割り振られた仕事をするだけだと味気がない。私は塾の仕事を長いことしてきたが、最初は自分で授業もして、保護者面談もして、集客もしていた。転職して別の塾に移ると、給料は上がったのだが、それまでのように授業や集客をすることはなくなり、教室運営のみが業務内容と決められていた。しばらくすると、以前のように自分で授業したり集客したりできなくてつまらなくなった、と思ったものだ。自分の与えられた仕事や目標を機械のようにこなすだけでいいのだろうか、とも思ったものだ。何も考えずに言われたことだけをやっていて良いはずはない。
ラッセルの幸福論と共通して書いてあることは、人は何かを作る時に幸福であるということだ。(ラッセルは、破壊することと、作ること、どちらも幸福につながると言っている。)私にとってはクラシック音楽を聴きながら、コーヒーを飲みながらこの文章を書いていることが至福なのである。文章を書いて、それが誰かに褒められるかどうか、そんなことはどうでもいいことだ。
アランは健康法として体操や音楽を勧めている。ただし、健康であれば幸福になる、というような事は言っていない。逆に、幸福であれば、病気になっても喜んでいられる、病気や死を恐れることもないと言っている。病気を恐れなければ、病気にならない。死を恐れなければ、長寿になる。どうもそのようなものであるらしい。先ほど、退屈だと不幸になると言ったが、それで、私が実践している事は、退屈な時間に、体を動かす、体操をする、という事だ。これは、普通のラジオ体操のようなものでも構わないと思う。ラジオ体操でも、毎日続けられれば、健康になり、幸福にもなるだろうと思う。1人でできなければ何人かでやると良い。私がやっているのは、太極拳である。まだ若い頃、大学生の頃から始めた。とにかく大学生というのは暇なもので、その時間を埋める、体を動かすことを始めたかったのだ。毎日、欠かさず、忙しい日でも行っている。内臓を直接マッサージするような気持ちよさもある。仕事を退職したら、太極拳を教えて生活費を得ようか、なんて思っていたこともある。私の知人は、太極拳ではなく、ダンスをやっている。その人に合うものであれば、なんでも良い。
本書は、幸福であることとはどういうものであるかを言っていることが多い。具体的に、何をすれば幸福になれるかを語っていることは少ない。学生時代に本書を読んだ時に不満に感じたのは、では、どうすれば幸福になれるのか?ということであった。終わりの方に、「幸福になる方法」という章があり、そこには、自分の不幸を他人に言わないこと、ということが書いてある。どうだろうか。たしかにそれが正しい事もある。しかし、その日に学校や会社であった嫌なことを家に帰って家族に話すという事もよくある事だと思う。家族や親しい人に言うことすらできなければ、私は悶々としてしまうに違いない。そういう意味では、アランは原則を語ってはいるが、その原則はいつも必ずしも当てはまらないのではないかと思う。その章の終わりに、天気の悪い日にこそ、良い顔をしよう、という、ことが書いてあるが、むしろ簡単にできる、こちらの実践の方が、良さそうに思う。幸福とは、そのような簡単にできることの、積み重ねで得られるのだと思う。オリンピックで金メダルを取れなければ幸福になれないような、難しいものではない。
アランは旅行に関する章のなかで短期間にさまざまなところを旅することを戒めている。アランの提唱する旅は、ゆっくりと少しずつ見て回る旅である。一度にたくさんの場所を見て回ると、全て同じ印象になってしまうと言うのだ。そのなかでアランは、ルーアンにあるサントゥーアンのカテドラルのことを美しいと言って誉めている。私は、ルーアンの街を実際に歩いたことがある。その時は、サントゥーアンのカテドラルも、モネの連作で有名なルーアン大聖堂も工事中で、外観はどこまで美しいのか分からなかった。しかし内側から見たサン・トゥーアンのカテドラルはステンドグラスが美しく、ステンドグラスを通して入ってくる夕陽まで美しかった。カテドラルの前にある公園の芝生には、たくさんの人が寝そべっていた。私からすると、その日、その公園にいて、芝生に寝そべっている人々が、世界で最も幸福な人たちに見えたのであった。
ベルニーニとローマの噴水
ローマを再訪しました。以前にローマを訪れた時、ヴァチカン美術館やパンテオン、真実の口などを見ました。今回は、前回見れなかった少しマイナーな所を回りました。まず、テルミニ駅から近いサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会です。ここにはバロック期のローマを代表する芸術家である、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「聖テレジアの法悦」があります。教会の見学時間は限られており、9~12時と16~19時です。15時半くらいに教会の入り口に到着しましたが,扉が閉まっていて,他にも開くのを待っていると思われる人が1組いました。16時まで,教会の前の横断歩道を渡ったところにあるモーゼの噴水のところで待ちました。モーゼの噴水はローマ三大噴水と言われています。モーゼ像の頭から角が生えていますが、これは旧約聖書を翻訳するときにモーゼの目が光ったというところを、誤ってモーゼから角が生えたと訳したところに端を発するようです。ローマでは街を歩きながら、喉が渇いたときに街中にある噴水の水を飲むのが伝統的です。ただ、コロナのこともあるので,今回は噴水の水に手を浸すだけにしました。教会の開くのを待っていると,他にも続々と観光客が集まり,教会の扉の前には最終的に2~30人の人が集まって来ました。16時ちょうどになり、(おそらく)アメリカ人の男性が扉をドンドンと叩きました。シスターが中から出て来て,扉を開けました。集まっていた皆さんが一斉に教会に入って行きました。アジア系の人は私だけでした。先ほど扉を叩いたアメリカ人は、スマホで教会の中を撮影していました。youtubeに動画をあげるのかもしれません。教会に入って左手に有名な「聖テレジアの法悦」があります。この像は、16世紀スペインの修道尼である聖テレジアの宗教体験の伝説を基にしています。聖テレジアは天使に先端の燃えた黄金の矢で心臓を貫かれるという幻覚を見ました。矢で何度も貫かれたテレジアは痛みから来る法悦を覚えたということです。
ベルニーニ自身もこの像が自分の作品の中で最も美しい作品であると言っていたそうです。恍惚とした顔の聖テレジアと矢を手にした天使が天上から降り注ぐ光を受けています。像の向かいには、発注者であるコルナーロ枢機卿達の像があり、まるでオペラ座のボックス席から像を見ているかのような作りになっています。
今回は、他にもローマの特徴的な幾つかの噴水を見て回ったので紹介します。サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会からバルベリーニ通りの坂を下ったところにある、バルベリーニ広場のトリトーネの噴水もベルニーニの作品です。トリトーネとはギリシャ神話の海神トリトンのこと。この噴水では,トリトンが法螺貝を上に向かって吹いている様子が表現されています。噴水という、実用的なものを彫刻という芸術で仕上げているところに感動しました。美術館に行ってお金を払わなければ見れない芸術作品ではないのです。ローマの夏は暑いですから,噴水で水を飲む人は多いことでしょう。この噴水は、童話で有名なアンデルセンの小説「即興詩人」の冒頭にも登場します。
トリトーネの噴水は広場の真ん中にあり、広場のはずれにはベルニーニの作ったもう一つの噴水があります。蜂の噴水と呼ばれるもので、貝殻に乗った蜂のところから水が噴き出ています。蜂はベルニーニに彫刻製作を依頼していたウルバヌス8世の出自である、バルベリーニ家の紋章に因んでいます。バルベリーニ広場の名前も、近くにバルベリーニ宮があることに由来します。
バルベリーニ広場からさらに歩いて10分のところに、有名なスペイン広場があります。映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーン扮するアン王女がジェラートを食べていたのがここです。今では階段が汚れるので、飲食や階段での座り込みが禁止になっています。「ローマの休日」ではヘップバーンがジェラートのアイスの部分だけ食べた後、コーンの部分を無造作に階段に捨てています。今とは時代が違いますね。今回の旅で乗ったITA機の中で見た映画「ミッション・インポッシブル デッドレコニングpart1」の中でも、カーチェイスの途中でスペイン広場が登場します。この映画も面白いので、観てみてください。
スペイン広場の真ん中にも、ベルニーニの噴水彫刻があります。「バルカッチャ(破船)の噴水」と呼ばれるもので、その昔テヴェレ川が氾濫した時、ここまで破船が運ばれてきたという話に基づいているそうです。この噴水は彫刻として優れたとても美しいものです。噴水の周りには人がたくさん集まっています。この辺りは水圧が低いので、噴水の位置が地面の高さと同じ位のところになっています。スペイン階段を上った所にトリニタ・ディ・モンティ教会と広場があり,ここからはローマの街が一望できます。
スペイン広場からバブイーノ通りを北に行ったところに、バブイーノの噴水があります。顔は人間ですが,首から下に苔のようなものが生えています。ローマ1醜い噴水と言われています。元はローマ神話のシーレーノス(ワイン作りの神)を表現していたとされています。それがバブーン(ヒヒ)に似ていることから、バブイーノと呼ばれるようになったそうです。ただ本当にヒヒに似ているかは微妙です。昔のローマ人はヒヒがどういう姿をしているのかは知らず、ただ醜いということだけは知っていたようです。ただのくつろいだおじさんの像に見えます。
バブイーノ通りの近くに有名なマルグッタ通りがあります。映画「ローマの休日」でグレゴリー・ペックが演じるアメリカ人新聞記者ジョー・ブラッドリーのアパートがあるのがマルグッタ通り51番地です。そこには今でも映画で出てきた建物が残されています。今から70年も前の映画なんですね。白黒映画で、ヘップバーンのウェストがなんと細いことか。映画では人通りが多く活気のある通りに映っています。今回は朝に行ったためか,他には誰もいませんでした。
マルグッタ通りからまたスペイン広場に戻り,さらに南に行くと、バロック期の噴水の傑作、トレビの泉があります。トレビの泉の前の広場はそれほど広くないのですが,人でごった返しています。おそらくローマで最も人口密度が高いのではないでしょうか。しかも世界中からとびきりのリア充達が集まっているのではないかと思えるほどに人々ははしゃぎ回っています。泉に向かってコインを後ろ向きに投げるとローマに再び来ることができると言われています。私も前回ローマに来た時にコインを投げました。ローマ再訪が叶って良かったです。今回もコインを投げようと、人が少なそうな朝8時くらいに来てみたのですが、すでに人がそれなりにいました。ただ、昼間ほどではないので、ちゃんとコインを投げ入れてきました。泉の正面ではなく側面の方が空いています。写真を撮るのも一苦労です。この周辺はジェラート屋がたくさんあります。一般的に言えば、こういう有名な場所にあるジェラート屋、飲食店は高い割にクオリティが低いです。そこから少し歩いた所にある、Lucciano’s というジェラテリアがおすすめです。
この辺りは街がごちゃごちゃとしています。人通りも多いです。トレヴィの泉から歩いて5分くらいの所に、パンテオンがあります。パンテオンは万神殿とでも訳せましょうか、古代ローマ時代からある建造物です。もともとはローマの神様が祀られていました。現在ではキリスト教の聖堂となっています。パリのパンテオンもそうですが、有名人の墓もあります。ここには、画家ラファエロ・サンティが眠っています。ローマにはラファエロの画が多く残っています。日本ではラファエロの画はなかなか見ることが出来ません。三十七歳という若さで死んだ天才です。僕も現在はラファエロが死んだのと同じくらいの年齢になってしまいました。数年前に初めてローマを訪れた時、パンテオンでラファエロの墓を見ました。その時は、私は三十歳くらいでした。早く何かを成し遂げなければいけない、そう思いました。パンテオンは天井に穴が開いており、建築の上から言っても興味深い建物です。古代ローマ時代にこれだけの大きさの天井のドームを作ることは難しかったようです。建築、芸術には、それを可能とするためのテクノロジーが必要でした。パンテオンはその後のイタリアの建築物、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレや、ヴァチカンのサンピエトロ教会のクーポラを建造する際に参考にされました。
パンテオンのすぐ近くにサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会があります。この教会には、ミケランジェロの「贖いの主イエス・キリスト」像があります。この像は、元々は裸の彫刻でしたが、その後、ブロンズの腰布で男性器の部分が覆われました。この彫刻はミケランジェロの作品の中ではあまりできが良くないと言われています。主祭壇のすぐ近くに置いてあって、間近で見ることが出来ます。何人かの教皇の墓や、画家フラ・アンジェリコの墓があります。主祭壇にシエナのカタリナの石棺があり、手紙がたくさん入れてありました。ガリレオ裁判が行われたのもこの教会です。教会の前のミネルヴァ広場には、オベリスクを乗せた象の面白い彫刻があります。これもベルニーニによって設計されたものです。ローマに十一本あるオベリスクは、エジプトから持って来られたものです。こちらはその中でも一番小さいものになります。ベルニーニはコンスタンティヌス帝の騎馬像やルイ14世の騎馬像と同時期にこの彫刻を作成しました。馬に乗った人間の像から、象に乗ったオベリスクを考えついたのかもしれません。
ミネルヴァ広場から南に少しいくと、トッレ・アルジェンティーナ広場があります。ここはジュリアス・シーザーが暗殺された場所です。現在では柵で囲まれた古代遺跡となっており,猫の溜まり場になっています。夜でも遺跡はライトアップされており,独特の雰囲気を保っています。更にそこから南に進んで小道を入ったマッテイ広場に、亀の噴水があります。亀の噴水はジャコモ・デッラ・ポルタの設計です。当初はイルカと、イルカの上に乗った男子の像が甕の周りに配置されただけで亀はいませんでしたが、のちに青年の像の手が支えていたイルカが撤去され、何もなくなったところに代わりに亀の彫刻を配置したのがベルニーニだとのことです。その後亀の彫刻が盗まれるなどしたため,現在はオリジナルは取り去られ、コピーが置かれています。ちなみにこの噴水はユダヤ人街の中にあります。昔はユダヤ人街を壁で囲んでいたようですが、今はありません。この地区はユダヤの伝統料理とローマ料理が融合した素晴らしい料理を出す店が多いです。
そこからまた南に歩くと、「真実の口」のあるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があります。この真実の口はもとはマンホールの蓋だったということです。「ローマの休日」で有名になりました。コロッセオから徒歩で行けるので、一緒に見るといいと思います。
引き返してパンテオンに戻ります。そこから細い道を少しいくと、ナヴォーナ広場に出ます。ここはもともと陸上競技場だったと言われており,確かにその形は、陸上の200mのトラックが収まりそうな、楕円形の形をしています。中央にはベルニーニ作の4大河の噴水があります。この噴水はバロック彫刻の傑作でしょう。ローマの野外彫刻としてはこのナヴォーナ広場の噴水や、トレビの泉、バルカッチャの泉あたりが最高のものになると思います。ローマに初めて行かれる方は、スペイン広場,トレビの泉、ナヴォーナ広場には行くでしょう。そこは他にも観光客が多く、人の多く集まる場所です。それだけポピュラーだということです。
ナヴォーナ広場には3つの噴水があり、4大河の噴水の北側にネプチューンの噴水があり、南側にモーロ人の噴水があります。どちらもジャコモ・デッラ・ポルタの作品です。亀の噴水と同様に、モーロ人の噴水には、後になってベルニーニが噴水の中央にイルカと格闘するムーア人の彫刻を付け加えました。このムーア人の彫刻もベルニーニらしい力強さを感じさせます。4大河の噴水が広場中央にあり、広場の噴水の中で最も巨大でモニュメンタルな作品です。4大河とは、ナイル川、ドナウ川、ガンジス川,ラプラタ川のことで、それぞれを擬人化した像の上に、エジプトから持ち帰った花崗岩を元に作られたオベリスクが建っています。ナヴォーナ広場はトムハンクス主演の映画「天使と悪魔」やジュリアロバーツ主演「食べて祈って恋をして」にも出てきます。ベンチがあるので、いつも誰かが座っています。私も歩き疲れたので、ベンチに座って休みました。映画の中でジュリアロバーツがジェラートをベンチに座って食べています。現代ではスペイン階段ではなく、ナヴォーナ広場でジェラートを食べるのが正解のようです。
ナヴォーナ広場からさらに北西へいくと、テヴェレ川に出ます。文明は川沿いの都市に発達することから、人間にとってどれだけ水が重要かということがわかります。テヴェレ川にかかるサンタンジェロ橋を渡ります。このサンタンジェロ橋は五賢帝の一人、ハドリアヌス帝が作らせたものです。テヴェレ川を渡った先にはサンタンジェロ城があり,サンタンジェロ城は初めはハドリアヌス帝の霊廟として建設されました。同時に霊廟に至る橋も作られました。サンタンジェロ橋の両側には10体の彫刻が飾られています。ベルニーニもそのうち2体の天使像を作成しました。それらの2体はあまりにも出来が良かったので、橋に飾られることはなく、現在ではサンタンドレア・デッレ・フラッテ教会に納められており、コピーが橋に飾られています。弟子が作成したコピーはしかし、完全なコピーというわけではなく、少し違う像であり、しかもベルニーニ自身が仕上げをしたという伝説があります。映画「ローマの休日」の中でダンスパーティがあったのもこのサンタンジェロ橋の下です。他にも様々な映画や、漫画にも出てきます。このサンタンジェロ橋は人がたくさんいる写真撮影スポットでもあります。
ここまで来ると、ヴァチカン市国まであと少しです。サンタンジェロ橋からはサンピエトロ寺院のクーポラが見えますから、そちらの方向に向かって15分くらい歩くと、世界最小国ヴァチカンのサン・ピエトロ広場に到着します。歩いて国境を通過する経験は日本ではできないでしょう。サン・ピエトロ広場の縁がイタリアとの国境です。広場にはたくさん人がいます。この広場にもベルニーニの噴水があります。広場中央にオベリスクがあり,その両側に同じデザインの噴水があります。広場北にあるのがカルロ・マデルノ作の噴水で、南にあるのがベルニーニ作の双子の噴水です。ベルニーニが後から同じデザインの噴水を作成
したので双子の噴水と呼ばれています。同じデザインとは言え、さすがに、私はオリジナルであるマデルノの噴水の方が芸術的に優れていると感じました。ベルニーニは、マデルノの噴水が気に入っていたからこそ、同じデザインの噴水を作ったわけです。私はパリのコンコルド広場の噴水も好きですが、それはサン・ピエトロ広場の噴水を真似して作られたと言います。コンコルド広場の方が、装飾が派手になっています。パリでは、ローマほどに噴水には注目が集まりません。不思議です。この例でもわかるように、イタリアは文化の源泉なのだな、と思います。そこから文化が始まり、世界に広がっていっている。ベルニーニも晩年パリに行き、ルーブル宮殿のデザインをしたり、ルイ14世の胸像を作ったりしました。フランス料理もイタリア料理の影響を受けて発展しました。
岩波新書の「ローマ散策」という本の冒頭に、ローマに半日しか滞在する時間がないとしたら、どこに行けばいいか?という質問への答えとして、カンピドリオの丘が挙がっています。今回のローマ滞在では、最後にカンピドリオの丘に行きました。ローマには7つの丘があり、それが都市ローマの基礎をつくりました。カンピドリオは7つの丘の中で最も高く、丘の上にはミケランジェロの設計したカンピドリオ広場があり,その周りにはローマ市庁舎やカピトリーノ美術館、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂があり,裏手にはフォロ・ロマーノがあるため、ローマの中心をなしています。カンピドリオ広場の真ん中には五賢帝の一人,マルクス・アウレリウスの騎馬像が配置されています。この像はレプリカで,本物はカピトリーノ美術館の中に展示されています。マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者でもあり,「自省録」の著者として、今日でも名前を知られています。広場の床はモザイクで幾何学模様が描かれています。カピトリーノ美術館は、観客はそれほど多くないものの、面白い展示が多くあります。仮に私がもしローマに半日しかいれないとしたら、スペイン広場やトレビの泉、ナヴォーナ広場などか、もしくはヴァチカン美術館とシスティーナ礼拝堂を勧めます。”Eternal City”(永遠の都)と呼ばれるローマですから、とにかく見るべきところは多いです。また戻ってきて、ローマ滞在の続きをやってみたいと思います。
ナポリのスケッチ
春にローマに滞在した。目的は、日帰りでナポリとオルヴィエートを見て回ることである。夜20時半にローマのフィウミチーノ空港に到着し、レオナルドエクスプレスでローマ市内に向かった。ホテルはテルミニ駅から歩いて10分の所にある。安ホテルだったせいか、冷蔵庫や貴重品入れなどの備品もなく、朝食も甘いパンだけだった。(*後で判明したことだが、イタリアでは朝食に甘いものを食べるのだそうだ。イタリアでも少しお金を出すと朝食はホテルのビュッフェであるが、むしろ菓子パンだけの朝食の方が地元の人の食べているものに近い。)翌日朝8時の特急フレッチャロッサに乗って、ナポリへ発つ。この電車はほぼ時刻表通り到着した。これは電車の遅れることが多いイタリアなので、意外であった。しかし、帰りの電車で痛い目を見ることになる。
ナポリに着くと中央駅から地下鉄A線でムニチピオ駅へ行く。駅を出ると、すぐに海岸沿いに出る。駅を出た所にあるムニチピオ広場でネプチューンの噴水を見ました。これは、ローマの有名な彫刻群を作ったジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父親である、ピエトロ・ベルニーニほか何人かの共作である。柵があるので、出てくる水を飲むことはできなかった。ヨーロッパだと、公共の広場にある噴水が芸術作品となっていることが多い。それほどガイドブックで取り上げられているわけでもないので、見逃しがちであるが、近くでじっと見てみることをお勧めする。有名な彫刻家が作っている場合も多く、無料で見れる。
それから、ヌオーヴォ城やサンカルロ劇場、ウンベルト1世のガレリアを見て、プレビシート広場へ出た。ミラノのガレリアの方が人がたくさんいて、流行っている店が多そうである。王宮はくまなく見て回ったが、そこまで重要なものは無かった。(ちなみに王宮博物館のチケット売り場の女性は超美人だったが,とてつもなく愛想が悪かった。ナポリの男があまりにも言い寄ってくるので、男性全員に塩対応なのだろうか、と思ってしまった。)プレビシート広場と王宮は、ナポリの中心という雰囲気がある。
そこからサンタルチア地区の海岸沿いの道を歩いた。晴れていて、気持ちがよく、人もたくさんいた。サンタルチアからは、海の向こうにうっすらとヴェスビオ火山が見えた。その日は少し霧がかかったようで、最初はヴェスビオ火山かどうか判別できなかった。湾にはボートが多く係留してあった。卵城の手前に巨人の噴水がある。巨人という名前がついてはいても、巨人像は無い。どうやら、元々はプレビシート広場に設置されていて、そのときには巨人像も隣にあったようです。その後で噴水だけが今の場所に移設されたということらしい。この噴水も、ピエトロ・ベルニーニとミケランジェロ・ナッケリノの共作です。この噴水の彫刻はかなり出来が良いです。先ほどのネプチューンの噴水よりも優れていると感じます。建っている場所も良いです。噴水の周りには人がたくさん集まっていました。ここから見るサンタルチア湾の景色も良いです。パルテノぺ通りは歩行者天国になっていて、人の流れのまま、ヴィットーリア広場のあたりまで行きました。ここに、日本橋にも出店している、Gino Sorbilloというピッツェリアがあるので、そこでピザを食べました。日本のお店で食べるのと、味はそれほど変わりませんでした。ITA Airwaysの飛行機の中で見たperoni社のビールが美味しそうだったので、それも頼んだ。500mlの瓶を頼んでしまい少し多かったかなと後悔したが、勢いで全部飲んだ。
そこから元来た道を戻り、トリエステ・エ・トレント広場のラウンドアバウトまで来ました。この広場は時刻がお昼過ぎになり、人で溢れかえっていました。歩行者で道が埋まり、車が前に進めなくなるほどでした。私の目の前で車とバイクが接触しそうになり、クラクションが鳴りました。そこからトレド通りを北に進みます。この辺りまで人が溢れかえり、カオスの様相を呈していました。途中、ピンタウロというケーキ屋で地元のお菓子である、ババを買って食べました。日本人からしたら油分が多すぎるようです。値段の割には量が多いです。お店にはイートインスペースがないので、道端で立って食べました。そこからトレド通りを北上し、国立考古学博物館に着きました。
国立考古学博物館では、期待していたよりも多くのことが学べました。この博物館のことは、また別のところで書きます。イタリアではトイレがあまりないので、考古学博物館のカフェで水を買って中庭のベンチに座って飲み、博物館のトイレに2回行きました。昔、サッカー選手のクリスティアーノ・ロナウドが、会見の時にコカコーラをどけて、水!と言ったことがありました。イタリアにいると、そんな彼の気持ちが分かります。日本のように当たり前に水が出てきませんし、濃い甘い味のついた飲み物も多いです。身体のことを考えると、水を飲むのがベストです。イタリアにいる間、毎日水ばかり飲んでいました。水があれば十分です。
考古学博物館からさらにトレド通りを北に向かい、カポディモンテ美術館に行きました。カポ(=頂上)ディ=ofモンテ(=山)と言うことで、丘の上にあります。ここにはミケランジェロやラファエロ、ティツィアーノなどの有名な絵もいくつかあるはずなのですが、美術館が改修工事中のため、2階のファルネーゼ・コレクションの部分がまるまる見れませんでした。3階のナポリ絵画の部分のみ見ました。それほど有名な絵はなくて、観客もまばらでした。カポディモンテ美術館は市中心部から遠いので,元々観光客はそんなに来ないのかもしれません。ゲーテのイタリア紀行の中にもカポディモンテ美術館に絵画を見に行った記述があります。観光客も少ないので,時間のある時にじっくりと見にくるところです。カポディモンテの周りには芝生の公園があり、多くの人が居ました。ここからのナポリの景色も素晴らしかったです。
歩いてスパッカナポリまで戻ります。ドゥオモ(街で一番重要な教会)や、それ以外の教会もいくつか見ました。イタリアではどの街もドゥオモを中心にして作られていますが、ナポリはそうではないという印象を受けました。ナポリはやはり王宮が中心です。しかし教会の数では,イタリアの他のどの町よりもナポリが多いです。ダウンタウンにはあちこちに教会があります。これがナポリの一つの特徴と言えるでしょう。イースター期間のため、ドゥオモの周りでは地元の小さなお祭りらしいものをやっていました。
有名なニーロ像は、ナイル川を具神化したものと言われています。ナイルのことをイタリア語でニーロと言います。それがいつの間にかナポリの守護神となったということです。誰がつけたのか,像の上に屋根があり,雨が降ってもニーロ像が濡れないようになっていました。動物の角でワインを飲み,豊穣を祝っている様子だそうです。同じような彫像がローマのカンピドリオ広場にもありますが、個人的には、ローマの方がよくできているように感じました。ニーロ像のあたりは旧市街の中心で,人が多く活気があります。街中にはいまだにマラドーナの写真が貼ってあります。
夜はナポリ中央駅近くのDa Ciroというピッツェリアでピザを食べました。Rick Steve'sのガイドブックに載っていたので訪れました。たまたまなのかもしれませんが,ワインがもう切れていたり、店の前で店員がタバコを吸っていたり、ピザの生地が美味しくなかったです。日本では飲食店の入り口で従業員がタバコを吸っていたら,100%パスするのですが,イタリアだし、ということで入ってしまいました。値段が高くないので今回はこれで良かったですが、次回はもうちょっと違うところに行くと思います。ピザばかりでビタミンが足りないと感じたので,お店を出てすぐのところにある露店でその場で絞ったオレンジジュースを買って飲みました。これは美味かったです。露店なので全然英語が通じませんでしたが、なんとかなりました。
帰りはナポリ中央駅から特急フレッチャロッサでローマに戻るつもりでしたが,駅の電光掲示板を見ると私の乗るはずの20:30発の電車が見つからず、20:31発のローマ行きの電車があるので,それに乗りました。しかし,これは急行列車だったらしく、私が座った席は別のイタリア人が予約していました。周りのイタリア人に助けてもらって,そのままその電車にいてもよいと言われて、誰も座っていない座席に移動しました。最近、「最後にはうまくいくイタリア人」という本が話題になっています。イタリアではトラブルも起こりますが、周りの人が助けてくれて、最後にはなんとかなることが多いようです。
ただ,この電車が遅れに遅れ,22:30頃到着の予定が、ローマに着いたのは日付も変わった1:30頃になっていました。明日の朝も早いので,電車の中ではひたすら寝ていました。電車内にトイレもあったので,一度トイレにも行きました。そうか、乗る時に駅員に聞いた方が良かったな…と思いましたが、後の祭り。これもイタリアの思い出のうちの一つかな…ということで,人生初めてのナポリの一日は終わりました。
カサ・バトリョ
バルセロナでガウディの建築を見てきました。その中で印象に残ったのが、Casa Batllo(カサ バトリョ) でした。こちらの建築は、バルセロナのメインストリートであるグラシア通りにあります。隣にはこれもまた有名な、建築家ホセ・プッチ・カダファルクによる、Casa Amatller(カサ・アマトリェール)があります。カサ・バトリョはガウディによる建築です。とても人気のある建築なので、予約しないと中に入れないでしょう。予約は15分刻みになっており、建物の前には列ができていました。
ガウディは自然からインスピレーションを得て建築したといわれており、カサバトリョに関しては、海がインスピレーションの源となっています。建物の外観を見るとバルコニーは魚の骨のようです。建物の側面は平面ではなく、波打っています。建物内部の壁も同様に波打つデザインです。驚くべきことに、カサ・バトリョの内部では、直線や平面が全く見られません。普通の住宅の常識を覆しています。ガウディは、建物の設計だけでなく、家具のデザインも行いました。このような波打った住宅には、普通の家具は合わないでしょう。自分の建築した建物に合う家具まで自分で作成していました。カサバトリョに関しては、建築設計ではなく、もともとある建物のリノベーションでしたが。
ガウディは自然から着想を得るだけではなく、意外に思うかもしれませんが、カテナリーなどの数学を使ったデザインも行なっていました。家具に関しても、人間工学に基づいた設計になっています。そういった、アーティスティックなデザインだけではなくサイエンスも取り入れているところに、ガウディ作品の隠された魅力があるのかもしれません。
カサバトリョやカサ・ミラはオーディオガイドが充実しており、日本語のガイドもありました。入り口でオーディオガイドを受け取り、中に入ります。ポイントごとに、自動でオーディオガイドが再生されるようになっています。エントランスは海底にいるような作りになっており、ジュール・ベルヌの世界観を表現しています。1階から2階に続く階段の手すりは大きな恐竜の背骨のようです。階段を上がって2階に行くと、バトリョ氏の書斎と暖炉のある部屋があります。その部屋を抜けてさらに進むと、サロンとも言うべき大きな部屋があります。この部屋は入り口の扉といい、グラシア通りに面した大きな窓といい、カサバトリョで最も象徴的で個性的な部屋と言って良いでしょう。この部屋にいる人々は、グラシア通りを通る人々を見、また、通りの人々から見られることを楽しんだようです。2階には、建物に囲まれた裏庭とも言うべき場所があります。グエル公園と同じく破砕タイルで作られた壁面があります。ベンチも置いてありました。私はベンチでしばらく休憩しました。
カサバトリョには中央にパティオがあります。パティオはまた、吹き抜け構造になっていて、各部屋に日光と空気が行き渡る仕組みになっています。吹き抜け側面の青い色は上階に行くほど濃い青となります。これによって、上階から下階まで光が均一に行き渡るそうです。
上階に移動します。追加料金で見れる部屋もあり、一応見てみましたが、見なくても損はしないと思います。次は屋根裏部屋です。屋根裏部屋は倉庫や洗濯室として使われていました。屋根裏部屋の通路には60個近い白の連続したカテナリー 曲線が使われており、見た目にも美しいです。そこから屋上へ移動します。
屋上にはバーもあり、また、夜にはコンサートが開かれています。建物正面から見えるファサードの「龍の背中」と呼ばれる部分の裏側や、多彩色の曲がった形をした煙突があります。機能性と芸術性の両方を追求するガウディらしさが詰まっていると言えるでしょう。
屋上まで上ったら、あとは階段を降りていきます。階段を降りながらアルミニウムのチェーンによって作られた隈研吾氏の作品を見ることができます。この作品もカサバトリョ同様に波打つデザインとなっており、色も上から下に行くにつれてだんだん黒色が濃くなっていくように作られています。サグラダファミリアの外尾悦郎氏以外にもバルセロナで活躍している日本人がいることに驚きです。そのうちにサッカーのFCバルセロナに移籍して活躍する日本人も出てくることでしょう。階段を地下まで降りると、Gaudi Cubeと呼ばれるCube(立方体)の部屋で6つの壁面全てがCGの画像で埋め尽くされる体験をして、カサバトリョでの全てのアトラクションは終了となります。
カサバトリョは家族連れで見に来ている人が多かったです。どちらかと言うと、子供向けのアトラクションなのかもしれません。美人な女の子も多く来ていました。美術館に行くと、美人が多いのと似ています。美術作品を鑑賞しつつ、美人を鑑賞することもできてお得です。美術や芸術はそれ自体、特に実生活で役に立つものではありません。しかし、仕事をするにしても汚くやるのと、美しいやり方でするのとがあるでしょう。美への意識が少しあるだけでも、実生活や仕事に違いが生まれてくることと思います。
モンジュイックの丘
私が子供の頃にバルセロナ・オリンピックがあり、マラソンのゴールがモンジュイックの丘にある競技場でした。有森裕子選手が銀メダルを獲得していました。それで、モンジュイックという言葉が強烈に印象に残っていました。バルセロナに行く機会があり、その時にモンジュイック地区にも行ったので、その時のことについて書こうと思います。
モンジュイック地区へは地下鉄が便利です。バルセロナの中心であるカタルーニャ広場から地下鉄の1番線でスペイン広場駅へ行きます。駅を出るとスペイン広場があり、大きなラウンドアバウトとなっています。中央には彫刻があります。この彫刻といい、ベネチアの塔といい、モンジュイック地区の建物はどれも大きいです。バルセロナ中心地からは少し距離があるので、大きな建物も建てやすいのかもしれません。サグラダ・ファミリアも、街の中心部からは離れた新市街にあります。
坂を上ると、マジカ噴水があります。私が行った時期は水不足で、噴水ショーはやっていませんでした。コロナ禍の中ですので、観客で密になるのを避けるための措置なのかもしれません。噴水の奥にカタルーニャ美術館があります。この建物は外から見ると美術館には見えません。日本でいうと、国会議事堂や、神宮外苑の聖徳記念絵画館に似ています。美術館はカタルーニャにゆかりのある芸術家の作品を中心に集めています。キリスト教の芸術作品が多い印象です。キリスト教以前の、ギリシャに由来する作品もありますが、少数です。日本でもおなじみの、ピカソやミロ関連の作品が見どころです。作品数もそれなりに多いです。疲れた時は、美術館内のカフェで休むと良いでしょう。私は歩き疲れて、休憩がてら立ち寄り、軽食とエストレージャのビールを頼みました。バルセロナの地ビールであるエストレージャは、街のあらゆるところで飲むことができます。私はバルセロナに滞在中、毎日ビールを飲んでいました。バルセロナの気候にも合っているし、とにかく美味しいのです。
美術館を見終えて、美術館の裏にまわります。さらに丘を登ると、オリンピックスタジアムがあります。バルセロナオリンピックでメインスタジアムとして使われていたところです。この時期は、サッカーのFCバルセロナのホームスタジアムであるカンプノウが改修工事中のため、バルセロナのホームスタジアムとなっていました。隣にはオリンピック博物館があります。様々な競技の写真が飾られていました。入場者はそれほど多くないようです。
そこから、さらに丘を上ります。次に行ったところは、ジョアン・ミロ美術館です。バルセロナ出身の芸術家である、ジョアン・ミロの作品が集められています。ミロの作品は抽象絵画と呼ばれるものに分類されます。おそらく、同時代のピカソやシュールレアリストたちに影響を受けたものです。絵画以外に彫刻作品も残しています。この美術館の2階のテラスからの眺めは素晴らしかったです。カウチも置いてあり、しばらく休憩することができました。
丘はさらに続きます。頂上のモンジュイック城まで、もう少しのところまで来ました。途中にケーブルカーの駅があります。今回はケーブルカーには乗らず、あえて歩いてモンジュイック城まで行きました。最後の急な坂を上り、やっと城に到着。モンジュイック城の入り口には、いまだに大砲が置かれています。普通のイメージの城というよりも、城砦といえるでしょう。モンジュイックの丘は古くからバルセロナの市街を守るための戦略的要塞でした。逆に、この丘を占領され、市街に向けて砲弾が発射されたこともあるようです。城からの眺めは素晴らしいです。バルセロナは港湾都市なので、タンカーやコンテナが海の方に見えました。海鳥が沢山いました。ただ、海側よりも、山側の景色が良かったです。ここから見ると、サグラダ・ファミリアも小さく見え、宇宙に向けて飛び立とうとしているスペース・シャトルのようです。
頂上まで登ってしまえば、あとは丘を下るだけです。下るのはあっという間です。下りは、ケーブルカーを使い、地下鉄駅のあるところまで下りました。だいたい半日もあればモンジュイック地区を回ることができます。
バルセロナは、スポーツも盛んであり、芸術、建築も一級品の街です。まずガウディ作品を見るべきですが、それが終わったら、モンジュイックの丘に行ってみてはいかがでしょうか。
ロダンと静岡県立美術館
静岡市にある静岡県立美術館に行ってきました。JR草薙駅から徒歩で25分くらいのところにあります。パリでロダン美術館を見てきましたので、日本でもロダンを見たいと思い、調べてみると、静岡県立美術館にロダン館があることがわかりました。
美術館は丘の上にあり、このあたりはおしゃれなカフェや、県立大学のあるエリアとなっています。丘を上って美術館に着くと鞄をロッカーに置きました。ロダンの彫刻作品は別館にあります。聖書をモチーフにしたデューラーの版画も展示されていました。そのスペースを抜けて別館に移動します。別館にはロダン以外の20世紀の彫刻作品もありました。これだけ多くの彫刻を収集している美術館も日本国内では珍しいと思います。
入り口近くに「花子」の像があります。ロダンはマルセイユで見た日本の旅芝居の一座の公演を見て、花子の演技に魅了されたといいます。パリのロダン美術館、またの名をオテルビロンといいますが、そこでの「花子」像制作の様子は森鴎外の短編「花子」に描かれています。日本人でロダンのモデルとなったのは花子だけです。花子は美人ではありません。しかし、ロダンは彫刻家の目で花子を見、その中に美を感じたようです。ロダンは合計58点の花子の彫刻を製作しました。
ロダンは他の芸術家たちの像を作ることも多かったようです。まずは画家のクロード・ロランやバスティアン・ルパージュの像があります。詩人のボードレールや小説家のバルザックの彫刻も展示されています。パリのロダン美術館にはユゴーやバルザックの像が多くあります。ロダンは彼らの小説が好きだったのでしょう。バルザックに関していえば、頭部像以外にも、立像も多く製作したようです。この美術館には、頭部の像と首から下の全身像があります。バルザックはロダンよりも少し前の時代の人ですから、ロダンはバルザックの像を作るときには写真を見たり、実際にバルザックの服を仕立てた服屋にも行ったりするなどして、正確なバルザックの像を作ろうとしていたようです。そうして出来上がったバルザック像は、発注した文芸家協会から受け取りを拒否されるなど、物議を醸します。現在は、パリのラスパイユ通りにそのバルザック像はあります。
彼の代表作の「考える人」を見ると、ミケランジェロの彫刻を思い出します。ミケランジェロのダヴィデ像が、ロダンの考える人に対応しているように思います。とは言っても、力強さや美、自然さという点ではダヴィデ像の方が上回っています。ロダンはイタリアに行ってミケランジェロの彫刻に影響を受けています。ミケランジェロのダヴィデは、また、ドナテッロのダヴィデにまでその源泉を遡ることができます。
考える人はもともとロダンの「地獄の門」の付属の彫刻を抜き出してきて独立させたものです。ロダンは、代表作である「カレーの市民」や「地獄の門」の一部を独立した一つの彫刻として作品にしています。地獄の門はダンテの神曲にインスピレーションを受けて制作されたものです。「考える人」は地獄の門の上部に取り付けてあり、地獄を見下ろして考えている、という構図です。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という言葉を思い出します。ロダンが地獄の門を作成する上で参考にしたのが、フィレンツェにあるギベルティの「天国の門」です。ちなみに、ドナテッロはギベルティの弟子にあたります。また「天国の門」はミケランジェロが命名したという伝説が残っています。10枚のパネルに旧約聖書の物語が表されています。昔は字が読める人が少なかったので、絵や彫刻で聖書の物語をあらわしていました。
この美術館にはカレーの市民の第1試作があります。フランス北部の街カレー市には、イングランド王エドワード3世に包囲され、飢餓に陥った時に市の主要メンバー6人が投降することにより助かった、という伝説があります。「カレーの市民」から独立した6体の彫刻はそれだけを見ても迫力のある出来栄えです。このカレーの市民像も当初はロダンの意図の通りには設置されませんでした。市民の求める英雄的表現ではなく、陰気な像だったからです。注文主の注文通りではなく、自分の思ったような作品に仕上げてしまうのが、真の芸術家ということでしょう。ロダンいわく、「もし急いだり行き着こうとあせったり、労働それ自身を目的として考えなかったり、成功、金銭、勲章、注文などを思ったりしたら、おしまいです!けっして芸術家にはなれません。」
静岡県立美術館は、彫刻作品が好きな私は楽しめました。イタリアに行ってミケランジェロやベルニーニの彫刻作品を見てから私も彫刻というものに興味を持つことになりました。やはりどんなものでも一流の物、傑作に触れることは大事なことです。